最高の「聖霊の賜物」を追求し続けよう!

聖書からのスピリチュアルライフ

目立つ賜物を求める人が多いのですが、聖霊が勧める最高の賜物を求める人が意外に少ないのです。

最高の賜物を熱心に求め続けよ

より優れた賜物を熱心に求めなさい!」(Iコリント12:31)

賜物のギリシャ語は、カリスマ χάρισμαで、 (神である聖霊からの)無償の賜物、恵みの賜物、授かり物です。特殊能力の意味でも使われます。カリスマ美容師とか、カリスマ〜という言い方でなじまれている方もいるでしょう。

Iコリントの手紙で最後の「賜物」ということばが、この12:30使われています。ギリシャ語ではその後使われていませんが、和訳の聖書では「賜物」と補われています。聖霊の賜物は、聖霊が与えたいと思う者に、無償で、恵みとして与えられるものであって、だれも誇ることもできないものというのです。

「求めなさい」は現在・命令形ですから、求め続けることを意味しています。この「より優れた賜物」は、一度与えられたら良いのではなく、たえず求め続けることが必要な奥の深い賜物です。

華々しい聖霊の賜物を求める傾向

奇蹟ができたらどんなにすごいでしょうか?人助けのためには、癒しの賜物が欲しいものです。

山を動かすほどの完全な信仰という賜物もいただきたいです。あらゆる奥義にも通じていたいし、あらゆる知識も欲しいですが、それらのどれにもまさる賜物があるのです。

その賜物は、奇蹟にまさり、いやしの賜物にまさり、異言にまさり、あらゆる奥義とあらゆる知識にまさり、山を動かす完全な信仰にまさり、預言にもまさるものですが、「聖霊の賜物」として求める人が意外と少ないようです。

特に目立つことなく、華々しくもなく、気づかれることも少ない賜物です。しかし、この賜物こそが、いつまでも続く残るもの、最高の聖霊の賜物です。そして、誰でも求めて続ける中に与えられる賜物です。そして求めるように命じられている賜物です。

さらにまさる道「愛道」

たとい、私が人の外国語や、天使の言語で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 2また、たとい私が預言の賜物ができて、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がないなら、何の値うちもありません。 3また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡したとしても、愛がなければ、何の役にも立ちません。Iコリント1313(私訳)

ここで使われているは、ギリシャ語の アガペー ἀγάπη です。この愛の意味は、日本語の意味とはかなりかけ離れているものです。「愛する主体が『あなたは価値がある』と価値判断する」という心の選択と判断から始まります。

人々がけなし、サタンがいかに「無価値だ!」と非難しようとも、時に自分自身が「自分なんて!」と自己卑下したとしても、神ご自身が「価値がある」と断定してくださるアガペーの愛です。

私たちがどんな良いものを持っているかによらず、「あなたは価値がある」と神が決められたのです。あなたが価値あるとされる唯一の理由は、イエス・キリストが身代わりに死んでくださったからです。

善人だからではありません。罪人だからでもありません。どうしようもないからと、慈悲や憐みや情けでの同情でもありません。あなたのためになされたイエス・キリストの犠牲のゆえに、あなたは高価で尊いものとなっているです。

神のアガペーの愛が、あなたのセルフイメージの源です。最高のアンデンティティが与えられます。私は高価で尊い存在だと万物の造り主が、保証してくださっているのです。

教会の中で再び奴隷状態?

自由を得させる救いを受けたはずなのに、洗礼を受けた頃から「〜すべきの奴隷」「奉仕の奴隷」にさせられていないでしょうか? 「救われてほんとうによかったね。あなたはありのままでいい!」と言われていたはずです。

ところが、いつの間にか課題が増え、ありのままどころか、奉仕の奴隷にされてしまっている場合があります。喜びを持って奉仕をしているのではないなら、それは奴隷です。義務からでしょうか?恐れからでしょうか? それは主に喜ばれることではないのです。「愛がなければ」奉仕もむなしいのです。

賜物重視や偏重の教会もつらい

「あなたは異言で祈れないのですか?」「異言が話せないのですか?」と責められて苦しんでいる方々がいます。できないことはできないのです。それを無理強むりじいして、やれというのも無理です。聖霊が主権を持って与えられる賜物ですから、人が強要するものではありません。

イエス・キリストの救いは、奴隷状態からの解放であり、自由です。また、賜物も無償であり、であるはずのものです。しかし、異言を強要するのは、材料なしでレンガを作るようなものです。かつてのエジプトの奴隷状態と同じです。

せっかく聖霊が与えてくださった賜物であったとしても、自分を誇り、愛がない活用は、人を苦しめることになります。いろいろな外国語で話せても、天使の言語で話せても、どんな賜物を使えても、どんな奉仕ができても、どんな慈善事業をしたとしても、全財産を施しても、体を焼かれ殉教したとしても、そして、どんな犠牲を払っても、愛がなければ、「無意味なのです。」

愛の意外性

教会関係の結婚式で、必ずというほど引用される聖書の箇所があります。しかし、どれほど、実行されているでしょうか?

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 6不正を喜ばずに真理を喜びます。 7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。Iコリント13:4〜7

とっても素敵な言葉ですが、結構誤解されていて、「これは実行不可!」「人はできなけれど、イエス・キリストは実践してくださった。私たちは無理ですが、イエス・キリストのことを言っているのです。」などと、他人事にしていませんか? 逃げていませんか?

結婚した夫婦が、相手を思って実行すべき言葉だと勧めてはいても、勧める本人は実行していない、スローガンや単なる目標や飾りで終わっていませんか?

問題だらけのクリスチャンたちへの勧め

コリントの教会は、問題のオンパレードでした。意見の不一致、不道徳、党派心と争い、近親相姦、教会員同志の裁判ざた、娼婦問題、快楽主義問題、異言の混乱が渦巻いていました。

集まる人々は、寛容がなく、不親切で、思いやりがない者、ねたむ者、自慢している者、見栄をはる者、嫉妬でいらいらしている者、高慢で高ぶり横柄な者、威張っている者、自己中心で、自分の利益を固守する利己的な者、怒りっぽい者、執念深く恨みを抱いている者、不正を行っている者、人々の悪い行いを我慢できないで暴露しようとしている者などでした。

彼らへの勧めであったことを考慮するなら、これらの言葉は実行できるような勧めであったはずです。実行可能な言葉として、もう一度Iコリント13:4〜7の言葉を見直してみましょう。

今日もウェブチャへようこそ!

「愛」の意味と重要性がわかりましたね。そして、神が私たちを愛してくださっているその愛こそが、私たちのアイデンティテーを明らかにし育ててくれるものです。「あなたはわたしの目には、高価で尊い」といわれる存在だと、正しく受けとめていきましょう。

間違っても奴隷となりませんように。罪の奴隷、悪習慣の奴隷、教会の奴隷、どれも奴隷では喜びがありません。神のアガペーの愛をしっかりと自分のものとして受け止めていきましょう。

今日も神の愛のうちに良い1日をお過ごしください!

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