「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」( I コリント11:30 )とありますように、聖餐式でのパンと杯で、弱くなる人や、病気になり死んだ者たちが大勢いたというのは、おそろしくないですか!?クリスチャンでも「どうもこわくて、参加できません。」「ふさわしくないので、今日は遠慮します。」などという声を聞きます。本当は、どうするのがよいのでしょう?
聖餐せいさん式の起源
「聖餐式」という言葉は聖書にないのですが、とっても重要なイエス・キリストから命じられた儀式の2つの中の1つです。それは、一般的に「最後の晩餐」と呼ばれるイエス・キリストの生涯の最期の日、すなわち、ユダヤ人にとっての金曜日の始まり(今日の暦では木曜日の日が沈んだ後)に、弟子たちは二階座敷に集まって過越を祝う中で、世界で初めての「聖餐式」が行われました。それを守るように伝えられ、今日に至ります。
聖餐式の目的と内容
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。Iコリント11:26
「イエス・キリストが再び来られる日(空中再臨)」までと期限が定められている儀式です。目的は、「イエス・キリストを覚える」「主の死(十字架の救い)を告げ知らせる」ためです。内容は、「裂かれようとしている(十字架ですでに裂かれた)イエスのからだ」を記念するパンを食べることと、「イエスの(十字架で流された)血潮」を記念する杯に入ったぶどう汁を飲むことです。
イスラエルの民がエジプトを脱出する時に、「過越の小羊」が、民の罪の身代わりとなり、殺され血が流され、その血潮が門柱とかもいに塗られたことが始まりです。血が塗られたその家の中にいる長子は、裁きが過ぎ越したという奇跡の体験を記念する祭りです。それ以来、守るべきとされたユダヤ人の三大祭りの1つです。その「過越の小羊」の真意は、最後の晩餐の時に知らされたのです。
過越の祭りと十字架
「過ぎ越しの祭り」は2通りあります。初日だけと、8日間を指す場合があります。ニサンの月(ユダヤ人にとってのエジプトを脱出した月を新年の第一月とした呼び名)の14日の夕暮れ、すなわち15日が始まる夕方から8日間かけて行われます。祭りの初日だけ(ニサンの月14日の日没から15日の日没まで)を「過越の祭り」とし、後の7日間、ニサンの月15日の日没後から21日までを「種を入れないパンの祭り」です。
15日の昼間の9時から午後3時まで、まさにこの「過越の小羊」が殺され血が流される同日に、イエス・キリストは人類の罪をかぶる「過越の小羊」として十字架にかけられ殺されました。ですから、私たちにとって、とってもありがたい記念をするのが、聖餐式と言えます。こんなにありがたいものがなぜ「恐怖の聖餐式」となってしまうのでしょうか?
主の最期の晩餐(過越の祭り)で聖餐式
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「取って食べなさい。これはあなたがたのための、裂かれようとしているわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 Iコリント11:23〜25
23節の「伝える」「渡す」のギリシャ語でパラディドーミπαραδίδωμι「渡す、持ち出す、投げ出す、託す、引き渡す、与える」がおもな意味で、日常で普通に使われている言葉ですが、ユダに関して使う時にのみ「裏切る」と訳す場合があるのは同意できません。キングジェームズをはじめとする英訳版もto betrayとしていますが、ユダの行為に対する間違った先入観的誤訳であり、むしろ、「引き渡す」と訳せばよいと思います。
パロπρό(前もって)+ディドーミδίδωμι(渡す、ゆだねる、払う、与える、ささげる)という2つの単語が合成されてパラディドーミπαραδίδωμιという単語ができたのです。
「裏切り」のギリシャ語は、プロドシアπροδοσίαという別の単語があります。これが使われているのは、「裏切り者」プロドテースπροδότης IIテモテ3:4 です。終わりの日の困難な時代に多くの人々が堕落していく様子のリストに挙げられています。
裏切り者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。IIテモテ3:4〜5
弟子たちのユダに対する見解
イエス・キリストが天に戻られた後の弟子たちは、ユダのことをどのように思っていたでしょうか?
「イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダ…」(使徒1:16 )とペテロが代表して残りの10人の弟子たちに話しています。しかし、「ユダは裏切り者だ!」という反論は、そこに集まっていた120名ほどの兄弟たちからも出てきませんでした。ユダが「不正なことをした」ことと「自死」であったことはルカが挿入しています。しかし、ユダは「裏切り者」とは言っていません。
「手引きした」のギリシャ語は、ホデーゴス ὁδηγός 「導く、案内する、リードする」ということで、「裏切った」とは、11人の弟子達も120名ほどの兄弟たちも誰も思っていませんでした。不思議ではないですか?それにも関わらず、今日「引き渡す」を「裏切る」と翻訳して、ユダだけを特別に悪い人間として、イエスを信じる十字架につけた実行犯たちがうやむやにされていないですか!ユダは「引き渡した」「手引きした」だけなのです。
ユダは、その後直ぐ深く反省してます。「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」(マタイ27:3)たのです。おそらく、ユダにとって予想外の展開でした。「イエスは罪に定められるはずはない。むしろ、ユダヤ人の王としての権限と力で、王国を樹立されるはずだ。」と期待し、ユダなりにその時を早めようと画策していたのではないでしょうか。イエスを窮地に追いやることで、イエスが本来の王として敵どもを滅ぼし、ローマの圧政から解放してくださると期待ていたのでは。
ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。使徒1:17
ユダは「裏切り者」などと、11弟子たちも120名ほどの兄弟達も思っていなかっただけでなく、最後まで「私たちの仲間」と言ったペテロの考えに同意していました。そして、断罪されるべきは誰かを、はっきりとペテロは明らかにしています。サンヘドリンの全議会をはじめイエス・キリストを十字架につけて殺した実行犯たちです。彼らは、反省のカケラもありませんでした。
このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 使徒2:36
ふさわしい状態とはどういうことでしょうか?
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29主のみからだをわきまえないで、ふさわしくないままで飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。 Iコリント11:27〜29
29節の、「主の」「ふさわしくないまま」が信頼できる写本のギリシャ語テキストにはあるのに、抜けている聖書もあるようです。「ふさわしくないまま」とは、ギリシャ語 アナキィオスἀναξίως「に価しない、ふさわしくない状態で」新約聖書でこの27と29節だけに、すなわち、主のパンを食べる時と主の杯を飲む時にのみ使われています。
ふさわしい状態とはどういうことでしょうか? 聖餐式の方法や仕方を言っているのではありません。2017年版はそれを匂わせていますが、間違いです。私たちの心の状態についてふさわしいかを問うているのです。それは、罪のない人ということですか?罪を犯していない人ということですか?具体的にどうすることでしょうか?
「一人一人が自分自身を吟味ぎんみして」
「吟味する」ということばが、それを補っているでしょう。「吟味する」は、ギリシャ語 ドミマゾーδοκιμάζω「①テストする、試験する、試す、判別する、検討する ②(このような試験、吟味の結果)合格と認める」という意味です。
「過越の小羊」は、まず、ニサンの月の10日に取り分けられ、14日までの4日間、しみや傷がないかどうか、入念に吟味されます。そして、14日の夕方に小羊をほふり、15日に人々は過越の食事を食べます。この「過越の小羊」を吟味するのと同じ意味で使われているようです。
イエスは、ニサンの月の10日にエルサレムに入城し、14日までの4日間、4つのグループの指導者たちから、神学的論争で「イエスがある神であるかどうか、メシアであるかどうか」の挑戦を受けました。正確には、「メシアではない」との前提をもとに、イエスを試し、民衆の評判を落とし、死刑にする口実をみつけるためでした。イエスの公生涯の最期の日15日の金曜日に十字架にかかるまで、「過越の小羊」「神の小羊」として辛らつに吟味され続けたのです。
私たちが、自分を同じように吟味をしたらどうなるでしょうか?答えは明らかです。裁かれて当然のどうしようもない罪人です。内側も外側も傷とシミと罪まみれです。
ですから、私たちは2つのものを「みきわめる」
主のみからだをわきまえないで、ふさわしくないままで飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。31しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。 I コリント11:29〜31
29節の「わきまえる」と31説のはじめの「さばく」は同じギリシャ語の単語です。
「わきまえる」「さばく」は、ギリシャ語 ディアクリノーδιακρίνω 「判断する、判定する、見きわめる、わきまえる、吟味する、裁く」などの意味です。私は、両方とも「みきわめる」で良いのではないかと思います。
① 「自分自身」を「吟味し、判定し、みきわめる」
自分を「裁く」というよりは、正しく「みきわめる」という訳の方が良いでしょう。同じギリシャ語の単語です。自分を「吟味し、みきわめ」た結果、どうみても、神の御心を満足させることがない、どうしようもない罪人であると不合格な自分を見出すのです。自分を吟味し、見極めた結果は「大丈夫」ではなく、「ダメ、不合格」! しかし、その自覚が大切です。いつのまにか、全く神のみこころから外れがちな罪人であるのに、「自分は大丈夫」と鈍くなり高慢になってしまうのです。
② 「主のみからだ」を「吟味し、判定し、みきわめる」
十字架で引き裂かれた主の御体は、私のためであったこと、人としての体を持って、父なる神の御心を完全に満足させたこと、その人としての人生において律法を完全に成就されたことなどを、吟味していくのです。そして、この方によって私は義とされると感謝して受け取るのです。
自分が相変わらず罪深いものだと判断しみきわめた結果
私たちはどうしょうもない罪人であるから、パンと杯にあずからないというのでなく、私たちはどうしょうもない罪人であるから、イエス・キリストが、私にとってどうしても必要な「罪を取り除く神の小羊」であると感謝して、いただくのです。
「取って食べなさい。」と主はご命令されたのは?
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。Iコリント11:28
吟味した上で「パンを食べ、杯を飲む」という積極的な勧めなのです。「食べない、飲まない」という選択肢はないのです。誰もが主のみからだを必要としており、十字架の血潮を必要としているからです。
世界で最初の聖餐式にユダは招かれましたか?
はい、ユダも招かれていました。イエスを見捨てていった弟子たちも参加しましたか? はい、12弟子全員がいたのです。イエスを3回も誓って呪って否定することになるペテロもいましたか? はい、もちろんです。世界で最初の聖餐式に参加していた者は、イエス・キリスト以外は皆、弱さを抱えた罪人集団でした。あなたも招かれています。
ユダの心にサタンが入ったのはいつですか?聖餐式の前ですか?後ですか?
サタンは2段階に渡ってユダに入ったことになっています。サタンが入るなど恐ろしいことですが、ここで言われているのは、過ぎ越しの食事の前においては、ユダが「イエス・キリストを祭司長たちに引き渡す」と計画した時に、サタンのもくろみを受け入れたということです。そして、最後の晩餐の終わりの方では、ユダが「イエスを引き渡す」計画を実行しようとした時、サタンが再びユダの思いを支配していたようです。3さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。4ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。ルカ22:3〜4
26イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。27彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」ヨハネ13:26〜27
ユダの内部にサタンが出たり入ったりしているのではなく、また、悪霊がとりつくように、サタンがユダにとりついたのではないようです。しかし、サタンはこの時ユダの背後にいてその思いは一体化していました。「あなたがしようしていることしなさい」と、サタンに、そして、ユダに行動をうながしました。なぜなら、十字架につくことは、父なる神の御心であり、イエス・キリストの意志決定であって、十字架に向かう行動の主体は、ユダでもサタンでもなく、イエス・キリストです。
イエスが、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった時、ユダへのメッセージが込められていました。罪人たちのために体は裂かれ、罪をきよめる血潮を必要としている人のために、そう「あなたのため」に「わたしの裂かれるからだだ。」と、ユダに渡され(ディドミー δίδωμι)たのです。全人類のため、そして、「あなたのために裂かれた体」「あなたのために流された血潮」だからです。ユダのためにもです!あなたのためにもです!
今日もウェブチャを訪れてくださりありがとうございます。
聖餐式は祝福なのです。おそれる必要も、辞退する必要もないのです。恐れなければならないとしたら、自分の鈍さ、高慢さとイエス様へ信頼の欠如ですね。自分がどんなに罪深くダメだと思えたとしても問題ないのです。自分自身のことを思う以上に、救い主であるイエス・キリストを思いましょう。
気になる罪、指摘されている罪があるなら、父なる神にその罪をその都度言い表し、イエスの血潮で清められ、「イエスの義で覆われているので合格とされている!」と受け止めていくことです。聖餐式が、赦しと恵みと、喜びと感謝と祝福の時間となりますように祈ります。
良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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