Iペテロ3:19の解釈 ケールッソー検証続き
前回のご質問の続きです。
『 また、これまで「みことばを語られたのです」と訳されてきた動詞ケーリュッソーの意味は「宣言する」ですが、宣言の内容を示す目的語がありません。福音を語ったことを明らかにしようとしたのであれば、ペテロは1:12、25で用いているエウアンゲリゾーを使用したでしょう。続く文脈、この章の結びの22節で、イエス・キリストが神の右の座に就き、御使いたちやもろもろの権威、権力を従わせたことが語られていることからすると、宣言の内容は勝利やさばきであったと考えるのがよいと思われます。[2017]その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。(HP引用終わり)』
「ケールッソー」のタイトルのところで、検討している所と重なる部分もありますので、そちらもご参考にして下さい。
目的語なしのケールッソー
目的語なしでも、ケールッソーは「福音を宣べ伝える」という意味で使われています。
第3版のルカ4:44 イエス・キリストが「福音を告げ知らせておられ」た(ケールッソーκηρύσσω ) と訳されています。「福音を」という目的語はありません。43節からも単に「宣言する」のではない事は文脈からも明らかです。そして、43節の「福音を宣べ伝える」(エウアンゲリゾーεὐαγγελίζω )の言い換えとして、44節が続いています。両方の節ともギリシャ語の聖書には「福音を」に相当する目的語はありませんが、そういう意味が含まれていますので、「福音を宣べ伝える」という意味で翻訳されているのです。
マタイ3:1 バプテスマのヨハネは「教えを宣べ伝え(ケールッソー)」、マタイ4:17イエスは「宣教を開始し(ケールッソー)」た。どちらも宣言ではありません。「教えを」の目的語はありませんが、「教えを宣べる」「宣教」だと補って訳しているように、何を伝えるかはふくまれているのです。なぜなら、単なる宣言でないことがわかっているからです。
以前ケールッソーについて新約聖書の60箇所をあげてありますように、単なる伝えるや宣言ではなく、「相手にわかるように説得して伝える」という意味を含んだ言葉です。イエス様の公生涯の始めから最後まで、「ケールッソー」しておられたことがわかります。
世界福音宣教とケールッソー
目的語の「福音を」とつながっているのも「ケールッソー」です。
私たちに与えられた世界宣教命令も「ケールッソー」福音を宣べ伝えるのです。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝え(ケールッソー)なさい。マルコ16:15
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝え(ケールッソー)た。マルコ16:20a
このように福音を宣べ伝えることとケールッソーは結びついています。マルコ16:20aには、「福音を」がありませんが、弟子たちがしたことは、何であるかがわかっていますので、「福音を宣べ伝えた」と当然、翻訳しているのです。したがって、Iペテロ3:19だけを「福音を宣べ伝える」ではなく、「宣言する」だとするのは、根拠がありません。
「宣言」は時間がかかりません。一瞬で終わります。イエス・キリストは霊魂として3日もハデスで過ごす必要はなくなります。「福音を宣べ伝える」のであれば、「相手にわかるように説得して伝える」ために時間を必要とするのです。ケールッソーはその意味を含めて使われているのです。Iペテロ3:19の目的
『 この箇所はまた、善を行っていながら苦しみにあっているキリスト者たちを励ます文脈にあります。同じ様な苦しみを通りながら救いにあずかったノアとその家族たちに言及するのもそのためです。そうであればなおのこと、キリストも苦難にあいながら、高く挙げられ、反対する霊たちに勝利やさばきを宣言された、と理解するのがよいのではないでしょうか。 新日本聖書刊行会 (HP引用終わり)』
そういった慰めもあるでしょう。ノアの家族の救いは、もちろんですが、Iペテロ3:19〜22の主題テーマは、イエス・キリストです。イエス・キリストが18、19節で十字架で殺された後、霊においてハデスに遣わされ、19、20節でハデスの霊たちに福音を宣べ伝えられ、22節で、天に凱旋されたという、イエスの生涯の重大な部分が、時間的な流れの中で語られています。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、福音を宣べ伝えたのです。 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の魂たちが、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。Iペテロ3:18〜20
受難に続いて、ハデスにまで遣わされたイエス・キリストのことは、肉体において苦しみを受けている人びとを励ますことにつながっていることでしょう。
そして、その時間的な流れの間に、「従わなかった霊たち」と「救われた魂たち」のことが対比され挿入されています。どちらかというと、18〜20節では、「悪い人々=捕らわれの霊たち=従わなかった霊たち」のためにイエス・キリストが身代わりとなり、ハデスにおいて彼らを訪ね福音を宣べ伝えられたという、重要なメッセージが伝えられています。
「悪霊ども」のことを取り上げても励ましになりません。ペテロの手紙を受け取った迫害されている家族にとって「悪霊ども」はどうでもいいことです。
魂(プシュクェーψυχή)と霊(プネウマπνεῦμα)は同義語
お気付きのように、死後の世界は、肉体を離れた霊魂の状態です。したがって、霊も魂も同義語として使われています。福音に従わなかった人々の霊も、箱船に入った人々の魂も同じ「霊魂」のことです。
死後のイエス・キリストの状態をここでは「魂」と表現しています。Iペテロ3:19では「霊」と表現していることからも、霊と魂は同義語として使われています。日本語としては「霊魂」という言い方があるので、「霊魂」と訳したほうが良いかもしれません。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼の魂はハデスに置き去られず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。使徒2:31〜32
「魂」(プシュクェーψυχή)は、心や精神など、知・情・意に関する部分で死後も、霊とともに自分自身の存在を指して使われます。
「霊」(プネウマπνεῦμα)は、無形の人格的存在を指し、肉体を離れた霊魂、世を去った霊を意味しています。ヘブル12:23、I ペテロ3:19 どちらも、肉体を離れた人の「霊魂」について使われるのです。(天使を始め霊的な存在にも使われます。)
迫害されている家族や親族の真の慰め
迫害されている家族や親族の中で、巻き添えとなって救われることなく殺されてしまった身内や知り合い、あるいはすでに亡くなっている人たちがどうなったのだろうか?救いの良い知らせを聞くことなく亡くなられた人たちは、どうなってしまったのだろうか?彼らは救われているのだろうか?そういった疑問にペテロは触れたのです。真の慰めはそこからくるからです。
「なぜ、イエスがハデスに遣わされたのか?」の答えがここにあります。
迫害に耐える力は、「イエス・キリストがハデスにまでくだらされ、ハデスからよみがえらされた事実です。」「イエス・キリストが死とハデスのかぎを持っている」すなわち、死に対しても、ハデスに対しても、イエスは権威を持っておられるということが真の慰めとなるのです。
なぜ、ノアの時代の「従わなかった霊たち」のことが取り上げられたのでしょうか?
人類史を聖書全体から眺めてみるなら、神が介入された裁きが、地球規模に及んだのは、ノアの時代だけです。ソドムとゴモラもエジプトも、バビロンもニネベも、その町や都市や国に限られた範囲でした。しかし、ノアの時代においては、地球規模で、人間の堕落がピークに達していたのです。
8人の家族を除いて地球規模で滅ぼさなければないほど人類は堕落していたのです。そのノアの時代に大洪水で溺死した堕落した不従順の人たちの霊魂たちがいる所へ、十字架の後、イエスが行ってくださったとするなら、ハデスには他の時代の人たちもいるのです。ノアの時代の「従わなかった霊たち」に福音が宣べ伝えられたのなら、まして、他の時代の人たちも、イエス・キリストから福音を宣べ伝えられたということになるのではないでしょうか!
なぜ、ハデスで福音が宣べ伝えられては、いけないのでしょうか?イエス・キリストのなされた福音宣教を否定する理由があるのでしょうか! 福音を宣べ伝えられた事実を否定するのは、人間の勝手な解釈です。聖書に書かれた事実をそのまま素直に受け取れば良いと思います。
ノアの時代のような堕落の時が来ている⁉︎
未来においても、ノアの時代のような堕落状態が来た時に、終わりが来ると伝えられています。イエス・キリストが地上再臨する時は、ノアの時代のような地球規模での人類の堕落状態となり、千年期の後には、地球規模のさばきが再びなされることになります。水ではなく、今度は火による裁きとなると聖書は警告しています。
ですから、私たちは裁きの宣言をしているのではありません。イエス・キリストによって成し遂げられた救いの福音を宣べ伝えている(ケールッソー)のです。一人でも滅びることを望まない神の御心があるからです。その御心に従って、十字架の死にまで従順に従われたイエス・キリストの人類への愛を知っているので、一人でも多くの人に良い知らせを宣べ伝えている(ケールッソー)のです。今日もウェブチャへようこそ!
主は、一人でも滅びることを望まず、すべての人が神のもとへ立ち返ってくることを望んでおられるのです。(IIペテロ3:9b)自分の価値を見失わないでください。「自分なんか意味があるのか?」などと自分をおとしめないでください。あなたを救うためにイエスは、あなたの身代わりとなり十字架の刑罰を受けられたのですから。
また、あなたの大事な人たちが救いの福音を聞かなかったと、心配したり不安にならないでください。すべての人が救いの福音を聞くようにと、神様は意図されているからです。ハデスにだれか知り合いが行ってしまっているとしたら、その人はあなたの救いを切に願っています。
イエス・キリストの愛と救いを受け取って、平安と喜びを日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
コメント
確かに、3日も宣言し続ける意味はありませんね。さばきを宣言したのだったら、むしろ3日で足りるかどうか…。
この言葉を受け入れたその日に3000人が救われた!というのも納得です。(私=ダビデではなかったのか、という衝撃かも知れませんが)