なまぬるさからの回復を願っているイエス・キリストは、どのようなお方でしょうか?
なまぬるさから回復できるのでしょうか?パウロが書いた「ラオデキヤへの手紙」が存在していた
ラオデキヤから南東のコロサイにある教会にあてた手紙に書かれているように、パウロは、手紙をラオデキヤの集まりに出していたのです。ラオデキヤでその手紙を読み終えたら、コロサイのエクレーシアに回すように伝え、また、コロサイの集まりに出した手紙をラオデキヤの群れに回すようにと伝えています。(コロサイ4:15〜16)
しかし、ラオデキヤから届くはずのパウロ手紙は、新約聖書には選ばれませんでした。コロサイにあるエクレーシアに送られた手紙は、ラオデキヤでも読まれるように手配されていましたので、その手紙をみてみましょう。
イエス・キリストは「神の被造物の統治者」「万物を創造された神、そして万物の支配者」
御子は、見えない神の似姿であり、全被造物の第一原因である方です。なぜなら、万物は御子によって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。コロサイ1:15〜17(私訳)
全ての造られたものの「第一原因である方」プロートトコスπρωτότοκοςは、「より先に生まれた」という意味もありますが、そう訳すべきではありません。なぜなら、イエス・キリストは、永遠の初めから存在される神だからです。
プロートスπρῶτοςは、プロπρό「先の、先行する、先頭に立つ」の最上級です。
ということは、イエス・キリストの存在より前がないことを意味しています。「先行する」「先頭に立つ」の最上級ということですから、
「全被造物の存在させられる前にすでに存在された第一原因なるお方」であることを意味しまた、「第一の権威と尊厳を持つ者」という意味です。
なぜなら、続く16、17節で、御子イエス・キリストが「万物の造り主」であることを説明しているからです。それにもかかわらず、あたかも、最初に造られた被造物であるかのような印象を与える翻訳はふさわしくありません。それは、イエス・キリストの神性を冒涜していないでしょうか。
御子イエス・キリストが第一原因であり、第一の権威と尊厳を持つ神
その理由を見てみましょう。
1、御子は、見えない神の「似姿」とは、「神」だということを意味しています。
「似姿」のギリシャ語エイコーンεἰκών父なる神との「類似性、相似性」を意味する言葉で、まさにイエス・キリストが神であることを伝えています。
2、「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。」とは、「霊的存在である天使も、神以外の天の霊的存在も」造られ、天使の階級を表す「王座も主権も支配も権威」も作られたのは、イエス・キリストです。当然、イエス・キリストは、天使の長でも、天使ミカエルでもはありません。万物の創造主だからです。
3、「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」イエス・キリストは万物の創造主であり、創造の目的だからです。
4、「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」宇宙も時間もいかなる空間も物質も、存在しなかった時に、御子イエス・キリストは永遠から存在していた方だからです。存在させられたのではありません。また、イエス・キリストは万物を保持している神です。
すなわち、ラオデキヤの人々に伝えたようにイエス・キリストが「万物の創造主であり、神であり、万物の統治者」であることをコロサイの集まりにも伝え説明しています。
神の被造物の「統治者」のアルクェーἀρχήは、「支配者、統治者、根源、行政官、最初の者」などの意味があります。
また、「被造物」のギリシャ語クティシスκτίσις「創造、創造されたもの、造られたもの」を意味しています。
御子イエス・キリストに信頼し、つながるべき大事な理由をさらにみてみましょう。
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は統治者であり、死者たちの中から復活したハデスの権威を持つ方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、抜きん出た第一人者となられたのです。コロサイ1:18 (私訳)
5、イエス・キリストは体である教会のかしらだからです。
エクレーシアのかしらは、御子イエス・キリストです。イエス・キリストの御心が反映され、イエス・キリストの判断がすべてとなるように求めているのです。
イエス・キリストに祈り求めることなく、人間の判断や、教会組織の会議や相談の結果だけで、教会のあり方を良しとして、運営しているのであれば、問題です。
イエス・キリストがかしらではなくなっている教会がラオデキヤ
ラオデキヤラオディケウスΛαοδικεύςとは、ラオスλαός「人々」+ディケーδίκη「裁き、仕返し、報復、懲らしめ」という2つの言葉で成り立っています。
ラオデキヤ教会は、その都市の名前のように、いつのまにか、人間が中心となった教会政治がなされていたのです。人間のレベルで全てを判断する運営の仕方です。イエス・キリストがかしらとなって神が中心となる神性政治が、本来あるべき姿です。しかし、神ではなく人間が中心となり、人が権限を振るい出したら、ラオデキヤです。
「なまぬるさ」からの真の解放は、温度差ではない
全てのことににおける抜きん出た第一人者は、イエス・キリストだけです。ですから、イエス・キリストに信頼しつながり、イエス・キリストと関係を密に保ちましょう。それが、「なまぬるさ」からの解放となります!信仰の温度差ではなく、頑張りの熱心さでもなく、イエス・キリストとともに生きることです。
今日も、イエス・キリストと共に歩み、良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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