I コリント13章の検証
前回に続き「異言」と日本語で訳されたグローッサが使われているコリントの手紙を検証していきます。12章は3カ所とも「わけのわからない異言」ではなく、「外国語」ということで理解できました。今回は I コリント13章はどうでしょうか? ご一緒に検証しみましょう。
13章では、グローッサがギリシャ語では、1節と8節に2回だけ出てきます。和訳には「異言」という言葉が、1節に2回出てきますが、ギリシャ語は、1回だけです。出てくる順番に検討していきます。
パウロは、微妙な意味合いを含めているようですから、何を言おうとしているのかを注意深く検証していきましょう。同時に前回からの続きの「聖霊の賜物」についても6、7、とまとめていく予定です。
たとい、〇〇しても、愛がないなら
たとい、私が人々の外国語(グローッサ)や、天使の言語(ギリシャ語なし)で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。Iコリント13章1〜3
1節は、「人々の外国語」と「天使の言語」について書いていると思われます。なぜなら、「たとい」と3回繰り返されますが、2回目と3回目の「たとい」の後には、良い積極的な内容のものが続いています。つまり、1回目の「たとい」の後に続く内容も良い積極的な意味のはずです。
「わけのわからない異言」では、何の良い効果も良い結果も人に与えないのですから、「人々の外国語」と「天使の言語」の意味で使ったのでしょう。「たとい」どんな良いことをして良い結果を出したとしても、「愛がないなら」なんの値打ちもない。どんな素晴らしい聖霊の賜物を使ったとしても、何の意味もなく、何の役にも立たないと続いているのです。
パウロは、他の弟子たちよりも多くの外国語を話せました。意味の通じな「わけのわからない異言」ではなく、意味の通じる外国語です。しかし、愛がないなら、完璧な外国語も役立たずです。パウロも、天使の言語は話せなかったでしょう。たとい天使語を話せたとしても、愛がないなら何の意味もないと言っているのです。
天使語を取り上げた理由
しかし、なぜ、「天使語」などを持ち出したのでしょう。しかも、人々の外国語や天使の言語と、「やかましいどらや」「うるさいシンバル」とがどのように関係しているのでしょうか? 気になりますね。
実はパウロがコリントのエクレーシア宛に書いた手紙の目的の1つがここにあるのです。それはコリントの教会を混乱させていた「わけのわからない怪しい異言」の問題の解決をするためでした。ですから、パウロは別の意味合いを含めてグローッサを使っているのです。
神との会話は天使語が必要?
ある者たちは、自分の異言は、「天使のことばだ」と誇っている者たちがいたのです。天使語かどうかを確かめられるのは、神と天使だけです。
どう考えても、聖霊が天使の言語を、無目的に与えるわけがないのです。「いや、天使と会話するためです。」と反論されたとしても、天使語を習得する必要など人間にはないのです。なぜなら、自分の母国語で十分に、天使とも神様とも完璧に会話ができますから、天使語は全く必要がないのです。聖書で天使と会話している箇所では、誰もが自分の言葉で話しています。天使はどんな言葉でも自由に話せるのです。
「わけのわからない怪しい異言」で祈る者たちは、「異言もどき」を人にあえて聞こえるように祈っていました。異言を話す者たちは、得意げに大声で話し、教会のメンバーの注目を集めていたのです。
教会のメンバーたちもその「異言もどき」を聖霊から受けたのではないと、見抜くことができませんでした。逆に「聖霊の賜物」であるかのように思い、真似したり、練習したりする者たちも出てくる始末だったのです。
当然、集会は混乱し収拾のつかないようになっていました。そのためパウロは、「偽物の異言もどき」を見抜く方法である、「聖霊の賜物の定義」から、書き始めてきたわけです。その定義1〜7に当てはまらなければ、聖霊からの賜物ではないと分類できるからです。
6、よりすぐれた賜物、さらにまさる道がある
今までに挙げたどの賜物よりも「よりすぐれた聖霊の賜物」は、「愛」です。そして、聖霊が与えてくださる「愛」が「さらにまさる道」なのです。「愛」が「聖霊のすぐれた賜物」であることを意識している人が、意外に少ないのではないでしょうか? 異言よりも予言よりも「より優れた聖霊の賜物」なのです。
果たして聖書が定義する「愛」を自分が持っていると言える人がいるでしょうか? 自分には愛があると錯覚している人は、聖霊の賜物としての「愛」を求めません。愛なしの預言、愛なしの完全な信仰、愛なしの施し、愛なしの犠牲、愛なしの殉教さえありうるのだと言うのです。
聖霊が与える愛の定義
自分は生まれつき「愛」持っているとだれも錯覚しないように、聖書の愛の基準が次に書かれています。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 Iコリント13:4~7
私たちはこの「聖霊による愛」が与えられるように祈り求めるのです。人の変化する愛でも、感情の暴走でもなく、この愛を求めるのです。それは、イエス・キリストが持っていた愛です。
「愛」は他のどの聖霊の賜物「より優れた道」なのです。花の道が花道であり華道でです。お茶の道が茶道で、柔の道が柔道です。それぞれがその世界を極めることに、努力していきます。私たちは愛の道である「愛道」を極めるために努力しましょう。
今日もウェブチャへようこそ
聖霊の賜物を求めるのでしたら、何よりも聖霊の賜物である「愛」を求めていきましょう。異言の賜物よりも、預言の賜物よりも何よりも全力で求める必要のある聖霊の賜物なのです。聖書の定義にそった愛を求めていきましょう。いや、単に求めるのではなく、道です。歩んでいくの道のように実践です。「愛道」が絵に書いた餅になりませんように。
今日も良い1日をお過ごしください!宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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