「異言」と訳されたグローッサ γλῶσσα の徹底検証 4

聖書からのスピリチュアルライフ

聖霊がくだり異言でなく「外国語」を話した事例 3

「信じて、聖霊を受けましたか?」使徒19:2
パウロがエペソに来た時には、「バプテスマのヨハネのバプテスマどまり」何人かと出逢ったのです。そこで「信じて、聖霊を受けましたか?」とパウロは尋ねました。

なぜなら、「イエスが救い主だと信頼したなら、聖霊をいただくこと」は、周知の事実でした。また、聖書か完成する前の過渡期において、「聖霊をいただくこと」の事実確認はとっても大事だったからでした。そこで、パウロはこの質問をしたのでした。
「いいえ、聖霊が存在することを聞きもしませんでした。」「では、何のバプテスマを受けたのですか?」「ヨハネのバプテスマです。」使徒19:2〜3

救われていたのに聖霊を受けていなかった原因

実は、パウロが質問したエペソの人たちは、アポロを通して救われた人でした。「アレキサンドリヤ生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人」のクリスチャンの伝道を通して、救われたのです。しかし、アポロには、正確な聖書の知識があり教える能力がありましたが、ヨハネのバプテスマしか知らないという問題がありました。

当然、聞いたエペソの人たちもそれ以上を知ることはできませんでした。(使徒18:24〜28)弟子は師以上にはなれないからです。

パウロが手を置くと聖霊がくだった

そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエス・キリストに信頼するように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。  使徒19:45

彼らの上にパウロが手を置いたとき、聖霊が彼らの上に臨まれ、彼らは外国語を語ったり、預言をしたりした。 その人々は、みな男で十二人ほどであった。使徒 19:6~7
実はこの出来事が、使徒の働きの初代教会におけるグローッサ γλῶσσαの最後の事例となります

アポロによる伝道で救われたエペソ人が、パウロが彼らの上に両手を置くことで、聖霊が下さりました。その結果、完璧なヘブライ語でいきなり話したり、預言をしたりしたのです。この結果、十二人ほどのエペソ人の男性が救われ聖霊を受けたことが明らかになったのです。

なぜ、再びこのしるしが伴ったのか?

また、なぜ、聖霊が下るためにパウロが手を置く必要があったのでしょうか? それは、パウロに対する批判を封じるためでした。以前のパウロはクリスチャンたちを迫害し、ステパノを殺すことに賛成し主導的行動をとっていた人物でした。

当然、パウロが救われても、熱心に伝道を開始しても、他の十二使徒のような「使徒としての召命を受けているとは思えない」と、疑う批判的な者たちがたくさんいたのです。そこで批判者たちの口を、彼らが理解できるように封じる必要があったのです。

パウロが両手を置いた時に、聖霊がエペソ人たちの上に臨みました。それは目に見えない霊的世界のことですから、本当に起ったどうか、誰にも判断できません。しかし、その瞬間、水のバプテスマを受けた者たちが、ヘブライ語で語り出し預言し始めたのです。

また、それらのエペソ人たちは、完璧なヘブライ語で話す必要がありました。なぜなら、ユダヤ人クリスチャンたちが、理解できるためです。これ以上パウロの使徒性を批判できないようにするためでした。聖霊ご自身がパウロの働きを承認している事実を、知る必要があったからです。

使徒の働きにおけるグローッサ  γλῶσσα  の徹底検証まとめ

1、「異言」と和訳されたところは、全て「外国語」と訳した方が意味が通る。

2、グローッサは、「話す」ものであり、「祈る」という事例がない。
3、グローッサは、「外国語を話したり、外国語を通訳する聖霊の賜物」であり、救われバプテスマを受けても「必ずしも」与えられるものではない。むしろ、事例は3つの特殊な局面に限られたもの。
4、「救われた者に聖霊が与えられた」霊的な事柄を、まだ理解していない者たちに見える形で、聖霊なる神がわからせた特殊な現象で外国語をいきなり話すこと。
5、聖霊の賜物の「外国語」は、一生のものではなく、一時的に与えられたものだった。
6、「聖霊が信じる者に与えられ、内住されていること」は、周知の事実となってからは、三つの事例以外に特に同じ現象はなかった

7、「未知の異言」は、「エクスタシーの異言」とも、「意味がわからない異言」とも言われているが、そのような「異言」は、使徒の働きの初代教会の中には記録されていない。
8、福音を伝える必要など目的がある時に与えられた「外国語」である。

「私たちのいろいろな国の言葉で、神の大きなみわざを語るのを聞こうとは!」(使徒211

「大きなしるしや不思議」とまやかし「異言」

世の終わりの時代には、「大きなしるしや不思議」に目が奪われ、惑わされることになると警告されています。「わけのわからない、まやかしの異言」なるものもその一つです。
にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 ( マタイ24:24)
神が聖書で勧めていないことを、自分のために求めても、神から与えられません。

伝道のためには、大いに祈り求めて、外国語が必要ならば、祈りつつ語学学習に励みましょう。それが、1番の近道です。学問に王道無し。
次回は、一番多く、グローッサ γλῶσσαが使われているコリントの手紙の問題となっている「異言」に関する箇所を、次に徹底検証して行く予定です。

わけのわからない異言で祈る人にお願い

異言を勧める人、練習をさせる人、異言を話せるように努力する人、異言が話せるように求める人などは、聖霊の賜物とかけ離れていないでしょうか? 聖霊が必要とあれば一瞬で与える言語は、意味のある完璧な外国語です。

しかし、それ以外のわけのわからない「異言」と呼ばれるものは、どうも怪しいと思えてなりません。

「あなたのために祈りましょう」と言って異言で祈る他の国の人に、「私がわかる日本語で祈って下さい。」とお願いします。聖霊があなたに異言を与えられたのでしたら、日本語も可能でしょうから。

わけのわからない異言を使った祈りに、私はアーメン(その通りです)とは同意できません。また、一緒に祈っている気にもなれないのです。それは、私だけでしょうか?

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難しい「異言」問題を検証してきましたが、多くの人を敵に回してしまうのではないかと、懸念けねんしますが、聖書がなんと言っているかを土台として、これからも考えていきたいと思っています。

主とともに今日も良い1日をお過ごし下さい。聖霊はあなたとともにいて下さいます!
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