霊的な飢え渇きの満たし

聖書からのスピリチュアルライフ

霊的な飢え渇きは成長のしるし

「自分の信頼生活にもっと何かが必要だ」と感じはじめる時期がきます。救われてしばらくして、そう思い始めることは、実は、成長している証拠です。

聖霊も私たちが成長し、聖霊の実を結んでいくことを願っておられるのです。聖霊の思いが私たちの霊と心にも飢え渇きとなって出てくるのです。正常な段階です。

健康であればお腹が空き、喉が渇くように、霊的な飢え渇きは、正常な反応とも言えます。

「救われたてのあの喜び」が薄れて来たりした時は、後ろを振り向くのではなく、次のステップに進む時です。「いのち」あるものは、現状に留まることなく成長し続けていくものだからです。

ジャンクフードでは満たされない

ただし、その時に、間違ったものを求めてしまう誘惑があり、まがいもので飢え渇きを満たしてしまう場合があるので、注意しなければなりません。

小さい子供たちが、食事前に「お腹が空いた~!」と泣きわめき、お菓子などを食べすぎると、肝心の食事が美味しく食べられないばかりか、不健康になっていきます。大人でも同じです。

ネットを通じて、いろいろな甘い、手っ取り早いジャンクフードが誘惑してきます。その一つが「異言」などの「霊的体験」というサタンの誘いです。そんなものに頼る必要など、全くありません。聖書でも全く勧めていません。

心の興奮や情熱はバロメーター?

聖霊に満たされている証拠は、心の興奮や情熱だ」という間違った情報に、ついだまされがちです。絶えず興奮状態を維持しようとしたら、身が持ちません。

熱心さのあまり体を壊してしまう

熱心さはあるのに体がついてこない

熱心さのあまり家庭が犠牲となる

熱心さはあるのに空回りしている

そんなことは、ないでしょうか?

心の興奮や情熱など一時的な感情の浮き沈みで、「聖霊の満たし」をはかるべきではありません。また、感情はずっと維持できるものではありません。間違ったメーターに左右されていると、聖霊の満たしを受け損ねます。

心は燃えていても

それから、イエスは戻って来て、彼ら(ペテロとヤコブとヨハネ)が眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」マルコ14:38

2回目も

彼らは眠っていた、ひどく眠けがさしていた(40)

3回目も

「まだ眠って休んでいるのか」(41)

別訳では、「では、ぐっすり眠って休みなさい。」

イエス・キリストは3人の弟子たちが眠ってしまったのをとがめているわけではありません。彼らが疲れて眠いことも、また、状況を十分に理解していないことご存知でした。

ゲッセマネで学ぶ

3人が眠ってしまうことも、イエス・キリストはご存知でした。それでも、彼らを、大事なゲッセマネの園における祈りに伴ったのは、理由があったのです。

「わたしの心は、悲しみのあまり死ぬほどです。」というイエス・キリストの人生の危機に、彼らを連れて行く必要がありました。大事なレッスンのために、あえて3人を連れて行ったのです。

ゲッセマネとは、アラム語で「オリーブの油搾あぶらしぼ」、または「オリーブの酒舟」という意味があります。オリーブの実がつぶされ油がしぼられる場所でした。

レッスン1、自分の弱さを徹底的に知る

とっても大事な祈りの場面であることを知りつつも、目をあけていられない。イエスの真剣な祈りの始めを、毎回同じ言葉までは聞いていたのです。しかし、その後に続く祈りは、眠くなってしまってだれも聞いていないのです。すっかり眠りこけてしまう3人。

その恥ずかしい体験を3回もしたのです。それは、心が燃える熱心さがあっても、ついていけない肉体の限界を知ることです。

レッスン2、互いに受け入れ合うために

オリーブの実が潰されなければオリーブ油がしぼり出されないように、私たちの自我やプライドも潰されていくような体験が、時には必要です。

「心が燃える」ギリシャ語は プロソーモスπρθυμος は、熱心な、熱意ある、進んで(喜んで)しようとする、などの意味があります。心も、気持ちも喜んでイエスの祈りについていくつもりでしたが、眠ってしまたのでした。

ゲッセマネの祈りがどれほど重要であったかを、後々、3人は思い出すことになります。それは、自分の弱さを知り受け入れ、他の人たちの弱さも理解し受け入れる合うためです。

弱さはリーダーが自覚すべき資質

何事にもへこたれないカリスマ的リーダーについて行くのは、比較的楽な道です。リーダーの方も、強い資質を持ってみんなを引っ張りたいと思うでしょう。

自分の弱さを自覚していますか? 弱さなどない方が良いと思いがちです。しかし、神のご計画はちがいます。あえて弱さを自覚している者をリーダーとして立てるのです。

彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。 3そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。 ヘブル5:2~3

カルト宗教は熱心さを強要する

カルトは、弱さを受け入れるのではなく、強迫的な様々な犠牲を要求して来ます。そのため、毎日の生活だけでも大変なところに、奉仕のために忙しい生活を強いられ、家庭や家族や仕事を犠牲にする事になります。

体に鞭打って、熱心に奉仕や伝道をすることで救われると全良な信者をだまし、奴隷とし、献金を巻き上げるのです。

自由を得させるために来たイエス・キリストと真逆のことを強制してくるのです。ニセ牧者の声に惑わされにようにしてください!

カルト宗教のリーダーは熱心

カルトリーダーは、熱心に語り、熱心さを強要し、信者たちを駆り立てます。彼らは「主よ主よ」と祈り熱心そうに見えますが、主イエス・キリストにつながってはいません。長い祈りも見せかけのパフォーマンスです。

「誰のための」熱心さでしょうか?

「何のための」熱心さでしょうか?

主イエス・キリストのためではなく、熱心さは自分のためであり、自己満足のための熱心さです。信者を多く増やして献金を集めるためです。そのためには海外にも足をのばします。

その熱心さは、人をイエス・キリストに結びつけるのではなく、自分に結びつけ、ピラミッド構造の頂点に自分が君臨し人々を支配していきます。

あなたがたに対するニセ教師たちの熱心は正しいものではありません。彼らは、あなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。  ガラテヤ4:17

知識がない熱心

熱心だけで知識がないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。 箴言19:2

熱心に願っても、祈りが答えられないことがあるのです。自分の快楽のために悪い動機であれば、いくら熱心に願っても答えられません。(ヤコブ4:2~3)

パウロは、熱心さで教会を迫害、ユダヤ人指導者は、熱心さでイエスを十字架につけました。熱心が過ぎて燃え尽きてしまう人がいます。自己犠牲的に熱心に伝道や奉仕をしているのに、自分だけが苦労していると不満を抱え、人に厳しい人がいます。

神の御心に沿った熱心さを身につけて行くことが大切です。

レッスン3、弱さに同情するイエス

眠りこけている弟子たちの弱さに同情し、理解してくださるイエスは、彼らのためにも、そして、私たちのためにも、ゲッセマネで祈られていました。そして、今も天においてとりなし続けてくださっているのです。

その都度眠ってしまうような弱い自分たちのために、聖霊なる神様の内住を通して、イエス・キリストはいつもそばにいてくださいます。

そして、祈りとりなし支えてくださるという事実をしかしかり受けとめていきましょう。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ヘブル4:15

レッスン4、イエスにつながって生きる

大切なのは、心が燃えていることではなく、弱かろうが眠かろうが、イエスと共に歩むこと、それでもイエスについていくということが、感情以上に大切なのです。

熱心さも、心が燃えていなくても、自分の内側に何もなくても、祈れば良いのです。いのちの源である方とつながり続けることです。大胆に恵みの身座に近づいて、あわれみを受け、めぐみをいただいていくのが、私たちの歩みです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。ヘブル4:16

感情を求めて行動するのは、本末転倒です。

感情は、主イエスとともに歩んでいく中に、聖霊によって与えられ、後からついてくるものです。

今日もウェブチャへようこそ!

霊的な飢え渇きは、イエス・キリストによって満たされます。異言や霊的体験ではありません。自分で自分を変えることでも、自分が変わることでもありません。神のご計画にそって私たちを変えてくださるのは聖霊の働きです。

心を開いてみことばを読み、いのちの源であるイエス・キリストにしっかりとつながり続けていくことで、心の飢え渇きは満たされるのです。

今日も良い1日をお過ごしください!

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