ご質問コーナー:
『Masalukさんは「異言は外国語であり、意味の分からない言葉ではない」と解釈しているとお見受けしました。私の日本人の知り合いに外国語の異言をしゃべる人がいます。最初は韓国語、現在は英語らしいです。ただし、それらの言語は自分では理解できず、むしろ最初の韓国語の時は、韓国語を理解したらしゃべれなくなり、今度は英語でしゃべりだしたとのことです。Ⅰコリント14:4には
異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます。とあります。彼女のケースでは、外国語を語りながらそれを「自分で理解できない」という状況です。異言が外国語、しかも自分でそれを理解できないとするならば、自分を造り上げているということにはなりません。
異言=外国語というとらえ方をすると、Ⅰコリント14:4にある「異言を語る者は自分を造り上げる」との言葉が矛盾するように思われます。自分で理解できない外国語は、自分を造り上げることはできないと思うのですが・・・。この点については、Masalukさんはどう思われるでしょうか?』
異言に関して大変大切なポイントをついたと質問と御意見をありがとうございます。
聖霊が与える「本来あるべき異言」は「外国語」
「意味の分からない言葉ではない」と私は解釈しています。少し補足させていただきますと、コリント教会で「外国語ではない意味のわからない異言(奇妙な異言)」を聖霊の賜物のように主張する人たちがいて困ったものだと、パウロは書いるのです。つまり、コリントの手紙では、「本物の外国語としての異言語」と「わけのわらぬ偽物異言」の両方が混在していたのです。したがって、異言としての「外国語」と、異言もどきの「わけのわからない、怪しい、奇妙な異言」を区別して、読むことが大切です。
特に「偽物の怪しい異言」が、コリントの集まりを混乱させていました。その混乱を治め正すのも、パウロの手紙の目的の1つでした。
聖書の2種類の異言の一つは、外国語
1、聖霊による賜物で、2、意味のある言葉であり、3、外国語としての異言です。4、その目的は、言葉の通じない異国人への福音の伝道のために、あるいは、外国語で語られる学びの通訳として必要とさていました。5、異国の言語としての異言で、パウロが推奨し、パウロも話せると言っている外国語のことです。もう一つの異言、聖霊の賜物もどき
1、聖霊によらない、2、意味のわからない、3、外国語もどきで、他の人に通じない、話している人も理解していない「怪しい言葉」で、4、自分を高める他に役に立たないもの。異言を話しているものたちの中には、聖霊に満たされたフリをしている者や、悪霊に操られている者もいました。それは、当時の異教の世界に、すでにあったものです。訳のわからない「異言」や、お経の繰り返しのようなものでした。
「聖霊の賜物」だと偽って「にせものの異言」が、教会に入り込んで来ていました。そのため、コリントの教会(エクレーシア)を大いに混乱させていたのです。20世紀に入ってから、再度ぶり返している問題です。
「外国語の異言」のレベルはどの程度?
① 完璧な韓国語や英語をいきなり話せるようになったのでしょうか? もし、完璧に話せるとしたら、うらやましい限りです!外国で生活しながら、1番の苦労は、言葉の問題ですから。② それとも、それらしい言葉を話し出したという程度の事でしょうか? 似たようなイントネーションや音で話しても、ネイティブの人が聞くとわからないといったことをよく聞きますが、どうなのでしょうか?
③ それとも、いくつかの単語を繰り返している程度でしょうか?
聖霊が与えてくださる賜物としての外国語であれば、練習なしに、いきなり完璧に話したり、通訳できるはずですが、いかがでしょうか?
「自分に理解できない」自分では何を言っているかわからないけど、言葉が出てくるという危険性
もしそうであるなら、知性に基づかないで言葉が出ることです。思考や理性などの中心である脳の前頭葉前半部が働いていないまま、言葉を喋っているということになります。聖霊なる神は、そのような無目的な事はなされません。
実際に口を乗っとる悪霊の働きがある
逆に、聖霊でないなら、むしろ悪霊の働きかけを疑いたくなります。私としては心配すべき現象だと思いますので、やめられるうちにやめた方が良いかと思います。パウロはそのような知性が働かない異言の祈りも、奇妙な異言で話すことも、否定的に扱っています。
もし、私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。Iコリント14:14ここでの異言は、「奇妙な異言」のことです。知性を伴わない祈りも知性の伴わない賛美に対しても、パウロは否定的です。知性で理解しないで口だけが動いている祈りや、知性で理解しない口ぱくの賛美を、神様が喜んで受け取られるでしょうか!私もそのような異言には、否定的な立場です。
では、どうすれば良いのでしょうか? 私は霊において祈り、また、知性においても祈りましょう。霊においても賛美し、また、知性においても賛美しましょう。 Iコリント14:15理性と知性を働かせての祈りや賛美が大事なのです。「霊で祈っているとか、霊で賛美している」とかいっても、感情だけで、理性や知性が伴っていないのでしたら、間違っています。
私も、理性や知性が働かず、本人が自分で何を言っているかわからないで、口先だけが動いて話しているといった人とは、あまり、会話したくないですね。
ですから、パウロは、霊でも、理性でも、祈り、賛美すると言っているのです。理性が働いておらず、なんだか訳のわからない言葉の羅列の怪しい異言を、パウロは疑い、否定しています。
本来の神が与えてくださる御霊の賜物の目的は?
教会(エクレーシア)の群れを高めるめるためのものです(Iコリント14:12)。預言も聖霊の賜物として与えられたのであれば、自分ではなく、教会を高めるために用います。(Iコリント14:4)自分ではなく、周りの人に益となっていくものです。周りの人が喜んで「アーメン、その通りです。ありがとう。」と言えるものです。
そうでないと、あなたが霊において祝福しても、知らない人々の座席についている人は、あなたの言っていることが(わけのわからぬ異言なので)わからないのですから、あなたの感謝について、どうやってアーメンと言えるでしょう。あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。 Iコリント14:16~17
自分を立てる異言とは?
「自分を立てる異言」という言い回しは、「聖霊の賜物」の真逆であって、否定的な表現です。「人や教会を立てる人」ではなく、「自分を立てている人」というのは、悪い意味を込めて言っているのです。つまり「自分を立てる異言」とは、「自分の能力や賜物の自慢であって、自分勝手な、自分を高めるだけの、見せかけの、聖霊の賜物を真似ただけの偽物の奇妙な異言を話しているだけだ。」とパウロは揶揄して書いているのです。
(奇妙な)異言を話す者は、自分を高めますが、預言する者は、群れ(エクレーシア)を高めます。 Iコリント14:4私たちは「自分を立てる」生き方から、解放されているのです。自分を立てることではなく、エクレーシアの群れのを立て上げるために賜物を用いて、お互いに仕え、奉仕しているのです。また、仕えるために聖霊の賜物を積極的に求めます。愛によらない賜物は必要ありません。(Iコリント14:1)
自分だけ恍惚状態になり、悦に浸っているような異言は、エクレーシアに必要ではありません。そんなものは、混乱させるだけなので、自分の家で一人でやっていなさいと、パウロは言っているのです。人間にはわからないので、神と話していなさいという皮肉です。
(奇妙な)異言を話す人は、人々に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、霊でミステリーな秘められたことを話すからです。Iコリント14:2これも、否定的な言い方で書いていることがお分かりでしょうか? 訳のわからぬ異言や口先の言葉は、神様も喜ばれません。
初期の聖霊の異言の賜物には、目的があった
群れを高める聖霊による喜ばしい賜物としての異言は、異邦人に福音を伝えるための異国の国の言語でした。五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨の時に見られ、福音を伝えるための通訳の賜物として用いられました。(使徒2:1〜12)その通訳に当たった弟子たちは、ペテロが話すヘブライ語の伝道メッセージを理解し、それぞれが知性を働かせ、一人一人違った国の言語を担当しました。それは、15か国の以上の言語に通訳したもので、外国語でした。
使徒2:4では、「他国のことば」「外国語」「異国語」であり、意味のない言葉ではありませんでした。聞く人たちはそれぞれ「神の大きなみわざ」を理解できたのです。(使徒2:11)
通訳した時に、その言語をどの程度理解していたかはわかりませんが、ペテロの言葉を正しく伝えようと神経を集中し、メッセージの内容をしっかりと理解したうえで、外国語に翻訳しました。
聖書的な異言には、必ずそれを聞く人がいて、その異言を理解できるということが、共通してみられる条件だということです。
「異言が外国語、しかも自分でそれを理解できないなら、自分を造り上げているということにはならない」
というのは、ご指摘して下さった通りです。自分でも分からないことを話していても意味がありません。自分もわかりませんし、当然、聞く人もわかりません。言葉は意味がわかって初めて伝わるものです。理解できないことを理解できない異言で言われても、誰も立てられません。ですから、もし、本物の異言(外国語)であるなら、通訳(解き明かす者)が必要であり、通訳者がいないならだまりなさいとパウロは叱責しています。(Iコリント4:28)
もし、完璧な語学力を聖霊に与えられたなら
韓国人や英語圏の人たちへの伝道や学びのための通訳の賜物として、ご活用できるように求めたらいかがでしょうか? その時、その賜物は神の栄光となると思いますし、人の役に立つことになります。その時、自分ではなく、人を高め、役に立つことができますので、ぜひ、そうしていただきたいと思います。
その方が、賜物を主のため人のために、ご活用されますように、祝福を祈ります!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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