前回からの続きです。Iコリント14:20〜22から検討します。
理解力においては大人になれ
兄弟たち。理解力においては子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし理解力においてはおとなになりなさい。 21律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌(グローッサ)により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」Iコリント14:20~21(私訳)
「物の考え方」とか「考え方」と訳されるギリシャ語のフレーン φρήν は 「理解」「理解力、知性」「思いやり」などの意味を含んでいます。これからパウロが書いていくことが、「グローッサがなんであるか」を教える大切な部分であることが前置きされています。読者に、理解と理解力を求めています。
「異なった舌」とは、「外国の言葉」です。
「異国の人のくちびる」とは、外国人の口です。
外国人が「異国のことば」で話をするという意味です。現在にたとえて言うならば「アメリカの宣教師が慣れない日本語で話すメッセージを聞くけど、聞き入れない」ということでしょう。
『 』の中身は、これはイザヤ書からの引用です。
もつれた舌の外国語とは?
まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。 12主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。 イザヤ28:11~12
「もつれた舌」は、外国人が慣れない言語を覚えて話す様子を表現しています。しかし、実際は、イザヤが南ユダ国に警告したのですが、指導者たちは、聞く耳を持たず、酔っ払いがもつれた舌で話しているかのように、馬鹿にしていたのです。
しかし、酔っ払っていたのは、ユダ国の指導者たちで、彼らは神のメッセージに耳を傾けず、イザヤをけなし、神の警告を受け入れなかったため、滅びを刈り取ることになります。
この神のことばは、ヒゼキヤ王の第14年に現実のものとなります。アッシリアの王セナケリブが、ユダの全ての城壁のある町々を攻め取った時、将軍ラブシャケが、ユダの言葉で降伏を呼びかけました。(イザヤ36:1~10)ユダ側のエルヤキムとシェブナとヨアブは、民が動揺しないように、ユダの言葉を使わないで、アラム語で話してくれないかと、ラブシャケに頼んだ場面がが書かれています、(イザヤ36:11)
異言は信者のためのしるし⁉︎
それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。Iコリント14:22
異言を、特殊能力や不思議体験ととらえていると、22節の言葉は理解できません。そう考える人たちは、異言というのは、「自分の救いを確信できる」、「神の臨在を体験できる」、「自分がより成長できる」、「たくさん祈れる」など、「信者のためのしるし」と考えています。
しかし、それは間違いです。「異言は信者のためのしるしではない。」と書いてありますから。それともこの成句を完全に否定してなんとも思わないのでしょうか?
「異言は確かに神様が信者に与えられるしるしであり、賜物です。」「異言は、霊で祈る祈りである。そのため異言で祈るなら霊性が高められる。」「異言は神様の祝福である。悪魔の支配から解放され、力を与えられ、強められる。」などと、クリスチャン生活に欠かせないもののように位置付けています。
これらは、神のことばと真反対の主張です。聖書のどこにも書かれていないことです。しかも、聖書のことばを削除し、書き換える恐ろしい罪を平気で公言していることになります。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 啓示録22:18~19
「不信者のためのしるし」の例
「しるし 」と訳された、ギリシャ語のセーメイオン σημεῖονは、 「人を他の人から区別する独特のしるし」、「不思議」、「奇跡」などの意味を含んでいます。1、「聖霊の賜物としての外国語」は、かつて、初代教会の初めのペンテコステの日に、外国の者に神の福音を伝える必要のための言語として、一時的に完璧な外国の言語が与えられました。使徒2:1〜13
2、異邦人が救われた時、その内面の変化をユダヤ人たちにわからせるために、異邦人が完璧なヘブライ語をいきなり話し出す奇跡が起こったのです。この独特のしるしで、これらの異邦人は救われたと他の異邦人と区別できるしるしとなりました。
救われた異邦人がいきなりヘブライ語を話すことで、ユダヤ人の信者にも、異邦人が救われたと理解できたのです。まさに不信者のしるしでした。使徒10:46,19:6
現在このしるしは、今まで学んできましたように、必要ではなくなりました。なぜなら、聖書が完成し、その事実は聖書の言葉を持って保証されているからです。すでに異言は止んでいるのです。
イエス・キリストにあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またイエス・キリストに信頼したことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。 14聖霊は私たちが御国を相続する保証です。 エペソ1:13~14 (私訳)
今日もウェブチャへようこそ
次回でこのシリーズの最終回となる予定です。イエス・キリストに信頼した時から、聖霊は私たちと共にいてくださるのです。この事実を、聖書のみことばを通して私たちは確信しています。自分がどのうように「感じるかどうか」という感情や感覚に頼っているのではありません。「神秘的な体験」にも頼りません。神のみことばに信頼し生きるのが、私たちの信頼生活です。私たちの歩みは、信頼から信頼へ進みます。
聖霊は、主イエス・キリストのつながる者たちに、聖霊の実を結ばせてくださるのです。その実が現れる時、私たちはさらに、自分たちがキリストにつながり属している祝福を味わい、感謝にあふれていきます。
聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22~23)
今日も御霊の実を結ぶ良い1日をお過ごし下さい。
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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