「ウェブチャも読ませていただいておりますが、行いよりもイエス様を信頼することのほうが大事であると強調されていますが、例えばマタイ7章21節やヤコブの手紙のように、行いのほうが大切であるような記載も多々あるように思えます。行いで自力で自らを変えるのではなく、イエス様を信頼し、その恵みを頂いて自己変容が起きるというのは、本当にありがたいことでありますが、都合の良いことのようにも思えます。」
ご質問ありがとうございます。マタイの7章21節から見てみましょう。「父のみこころ」とはなんでしょうか?ちょうどイエス様に同じような質問をした人がいます。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
父のみこころ=神のわざです。
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 ヨハネ6:28〜29
父なる神が第一に一番願っている「わざ=行い」は、「神が遣わした者に信頼すること」です。すなわちイエス・キリストに信頼することなしに、どんなに人の喜ばれることを行なっていたとしても、救われるかどうかには関係がないとされています。無意味では決してありません。喜んでくださる人がいるからです。でも、天国に入れるかどうかに、私たちの行いは関係ないのです。どんなに功徳を積んだとしても、神の合格ラインに届く人は一人もいません。
マタイ7章21節で父の御心を行なっていないと言われた人は、とっても立派な行いをしていました。イエス・キリストの名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟をたくさん行なっていましたが、父なる神が第一に一番願っている「わざ=行い」をしていなかった人たちなのです。つまり救われていない人たちです。
ですから、イエス様に『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』と言われてしまうのです。預言者であり、教師であっても、第一の神のみこころをパスすることなしにイエス・キリストに信頼していないなら、どんな素晴らしい行いも評価されないのです。1塁ベースを踏まずに2塁3塁ホームベースを踏んだところで、1点にもならないのです。
さて、救われた者の生活において、行いはとっても大事になります。その行いとは、父の御心であり、イエス・キリストのご命令を守ることです。それは「互いに愛し合う」ということです。神を愛し人を愛すること、これが聖書であり、ご命令の全てです。
では、「互いに愛し合うこと」は、とっても簡単なようで、いざとなると結構難しいものですね〜!それを乗り終えられるように聖霊なる神の助けをいただけるのです。簡単なことではないです。自分も含めて色々な方がいますから、気の合う合わないだけでも、大きなハードルとなる事があります。
傷つけられた人をどのように許すか?まして、愛するとなるととってもハードルの高い課題です。できなかったとしても、救いがなくなるわけではないのです。でも、愛そうと努力する、愛せるように求める事ことは、結果を出せなかったとしても、イエス様は、それを評価されるべきものとして、報いてくださるというです。
私たちをイエス様のように変えてくださるのは、聖霊の働きです。でも、「人を愛する事ができますように、私を変えてください!」というあなたの祈りなしに、聖霊なる神は強引にあなたを変えようとはしません。
また、神に喜ばれることをするのは、神が与えてくださる祝福の道です。行いによる祝福について、たとえば、ヤコブの1章22〜25節には以下のようにかかれています。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
神に示されたみことばの実践は、祝福の道です。
父なる神の御前できよく汚れのない信心は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。 ヤコブ1:27これは、具体的ですが、ほんの一例にすぎません。救われた者たちが積極的に、神様の喜ばれるは何かと考えながら行動する事はとっても大事であり、神様に喜ばれる事なのです。その行動や行いは、全て祝福へと変わります。この地上で何も得ずとも、携挙後の7年の天でのプライズギビングにおいて表彰されます。その報いは、地上に戻ってからの千年王国において、あなたの働きや奉仕などと関連してくる事でしょう。ある人は、土地を与えられたり、町を治めることにもなるのです。
今日もウェブチャへようこそ!
救われる時はイエス・キリストへの信頼のみ、行いは必要ありません。自分の救いのためには、実際は何一つできることはないのですね。私たちができる唯一の事、それは、神が願っている神のわざである「神が遣わしたイエス・キリストに信頼すること」だけです。救われたなら今度は、神に喜ばれることの全てを、何でも積極的にしていきましょう。決して背伸びすることなく、自分にできることでいいのです。神の働きのために必要なら、自分に無い賜物を求め、自分にない無い知恵を求めていくこともあります。積極的に大胆に祈り求め、行動していきましょう。人の評価など気にしないでください。結果や成果でありません。神様のためにと思って何をしたかです!
今日も良い一日をお過ごしください。
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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