復活(5) 復活の3日目まで ハデスでケールッソー

ハデスにおける伝道

◉ イエス・キリストはハデスへ行く必要があった!

イエス・キリストはハデスの捕らわれの霊たちのところへ行く必要がありました。
なぜわざわざハデスの方にイエスは遣わされたのでしょう?
そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 ──この「上られた」ということばは、彼がまず地のさらに低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 エペソ4:8〜9
イエス・キリストが「まず、地のより深い所に下られた。」とは、本当に感動です。「まず」プロトーン(πρῶτον)「まず第一に」「まず最初に」という意味です。ハデスに行くことに意味があり優先順位が1番であり、重要なことだというのは、なぜでしょうか?
その霊魂において、キリストは捕らわれの霊魂たちのところに行って、みことばを語られ(ケールッソー)たのです。 昔、ノアの時代に、箱船が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊魂たちのことです。わずか八人の人々が、この箱船の中で、水を通って救われたのです。 Iペテロ3:19〜20

◉ ハデスへ行かれた目的は、裁きの宣告のため?

「裁きを宣言をした 」とは、どこにも書いてありません。裁きの宣言ならわざわざ十字架の直後に行く必要があったのでしょうか?愛弟子に裏切られ、父なる神から切り離され、全人類の身代わりとなって裁きを受けたのです。霊魂がズタズタにされ、ボロボロの状態でまずハデスに直行する必要などありません。いずれ大審判の時に裁きを宣告すれば良いのですから、その時点でその状態で無理して行く必要など全くないのです。

◉ 目的は勝利宣言をするため?だれに?

ハデスへ行かれた目的は勝利宣言をするためですか?だれにですか?悪霊に?サタンに? それならば、地のより深い所より、さらに深いところである底知れぬ深い淵のタルタローに行けば良いのです。

しかし、イエスが行った場所は、ハデスです。イエス・キリストのことも知らない罪人が入っているハデスだと、ダビデも預言し、使徒たちも説教し、その証人となりました。悪霊どもの捕らえられているタルタローではなく、救いを知っていても神に従わなかった人の霊魂たちが捕らえられているハデスです。

また、霊的世界においては、何が起こっているかは知れ渡っているのです。したがって行く必要も無いのです。

◉ ケールッソーとは宣告でも宣言でもない

ケールッソー (κηρύσσω)とは宣告でも、宣言でもありません。十字架の直後にハデスの獄にいた捕らえられている人々の霊魂の所に行ったのは、みことばを語るため、福音を宣べ伝える、説教する(ケールッソー κηρύσσω)ためでした。ケールッソーの使われている箇所は60箇所です。

ケールッソー (κηρύσσω)が使われている60箇所全部を調べたところ、「宣言する」「宣告する」という使われ方の箇所は1箇所もなく、そのすべてが「宣べ伝える」「宣教する」「言い広める」「説き広める」「告げ知らせる」などでした。

それなのに新改訳聖書の2017年版は Iペテロ3:19〜20のケールッソー (κηρύσσω)「みことばを語られた」(第3版)を「宣言した」に直したのは、なんの根拠があってでしょうか?少なくとも聖書からの根拠はありません!
しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝え(エウアンゲリゾー)なければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」ルカ4:43

そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせて(ケールッソー)おられた。 ルカ4:44節
43節はギリシャ語のエウアンゲリゾー (εὐαγγελίζω )「福音を伝える」「良い知らせを伝える」(52回 )が使われています。続く44節では、ケールッソー (κηρύσσω )というギリシャ語(新約聖書で60回使われています。 )つまり43節のエウアンゲリゾー の言い換えが44節のケールッソー の「布告する、大声で伝える 」「宣べ伝える、説教する」です。

◉ ケールッソーとエウアンゲリゾーの違い

ケールッソーにはエウアンゲリゾーの言い換え以上の意味がプラスされます。福音を単に「伝える」「伝達する」だけでなくて、相手に伝わるように「大声で伝え、布告し」相手にわかるように「教え、説教する、宣べ伝える」という、「相手に伝わるように、わかるように」、つまり「伝える」よりも「伝わる」ことに重きが置かれている言葉です。

イエス・キリストの公生涯の初期からケールッソーされていました。イエス・キリストは福音を「大声で伝え、教え、説教し、宣べ伝える」ケールッソー で始まり、その生涯はケールッソー の連続でした。そして、十字架の直後のハデスにおいてもイエス・キリストは福音を「大声で伝え、教え、説教する、宣べ伝える」ケールッソー であったわけです。それは救い主としてのイエス・キリストの使命であり、完成なのです。

裁きを宣言したのではありません。時間をかけて福音が伝わるように「大声で伝え、教え、説教し、宣べ伝え」られたのです。霊魂においてズタズタとなりボロボロとなった状態でも、相手が救われるために福音をわかるように宣べ伝えることこそ、ではないでしょうか!?

◉ 全世界でケールッソーするように命じられた

その愛を理解した者たちにもケールッソーするように命じられました。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい(ケールッソーの命令形)マルコ16:15

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた(ケールッソーのアオリスト)。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。 マルコ16:20

◉ 3日間復活までの時間

ケールッソーは福音を「宣べ伝える」であって、「宣言する」でも「宣告する」ではありません。単に裁きの宣告や勝利宣言だけであるなら、そんなに時間はいらないでしょう。「裁きの宣言」であるなら、何もこの時にわざわざハデスに行って改めて宣言されなくても、彼らは苦しみながら十分裁かれていると分かっています。わざわざ言い渡すことでもないのです。あとで大いなる審判が確実にあるのですから、ハデスに行く意味も、宣言する意味もありません。
イエス・キリストは復活する三日目まで、ハデスにいる一人一人に救いの福音を「大声で伝え、教え、説教し、宣べ伝え」ておられたのです。ですから、それなりの時間を必要としたはずです。私たちも時間をかけ愛をもってケールッソーしているのです。

◉ ケールッソーが使われている60箇所

本当かどうか調べ確かめたい人たちのためにケールッソーが使われている60箇所をあげておきます。
宣言や宣告ではありません。お使い聖書の版によって色々な訳があるかもしれませんが、相手に伝わるように「大声で伝え、布告し」相手にわかるように「教え、説教する、宣べ伝える」という意味で、文章が読めるはずです。箇所の入力ミスがありましたらお知らせください。書き込めるように右をあえて空白にしました。

マタイ3:1
4:17
4:23
9:35
10:7
10:27
11:1
24:14
26:13
マルコ1:4
1:7
1:14
1:38
1:39
1:45
3:14
5:20
6:12
7:36
13:10
14:9
16:15
16:20
ルカ3:3
4:18
4:19
4:44
8:1
8:39
9:2
12:3
24:47
使徒8:5
9:20
10:37
10:42
15:21
19:13
20:25
28:31
ローマ2:21
10:8
10:14
10:15
I コリント1:23
9:27
15:11
15:12
II コリント1:19
4:5
11:4
ガラテヤ2:2
5:11
ピリピ1:15
コロサイ1:23
I テサロニケ2:9
I テモテ 3:16
II テモテ4:2
I ペテロ3:19
啓示録 5:2

今日もウェブチャを訪れて下さってありがとうございます!

最後までたどり着いてくださりありがとうございました。色々なサイトが申し合わせたように Iペテロ3:19のケールッソーを「宣言であり、福音を伝えたのではありません」と書いています。誰かさんが言ったから右へ習えではなく、きちんと調べていただければわかるはずです。ケールッソーは「宣言する」の意味もありますが、新訳聖書の60箇所中59箇所が「宣言する」と言う箇所はなく、「福音を宣げ伝えた」と言うのであれば、Iペテロ3:19も「福音をわかるように伝える、宣べ伝える」で良いと思います。

少なくともイエス・キリストと関係している所においては、救い主としてのイエス・キリスト、救いの創始者であり、完成者であるイエス様に関しては、「福音を宣べ伝える」が正しい訳だと思います。皆さんはどう思われますか?

今日もその神の愛、イエス・キリストのを受けとめてお過ごしください!
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コメント

  1. 応為 より:
    大変詳しくありがとうございます!
    2017年度版で見ながら確認しました。
    どこがケールッソーと訳されるのか分かり難い部分を質問させて下さい。
    ・マタイ4:17のケールッソーは、『宣教を開始し』の部分でしょうか。
    ・ローマ2:21、これは”教えながら”でしょうか、”説きながら”の部分でしょうか?
    ・ガラテヤ2:2は、”人々に示しました”の部分でしょうか。
    ・ピリピ1:18は、”キリストが宣べ伝えられているのですから、”の部分でしょうか。
    また、直接的な福音ではなく、自分にして頂いた奇跡を振れ回った、というような意味でのケールッソーが、マルコ1:45、マルコ5:20、マルコ7:36、ルカ8:39だと認識します。
    ルカ12:3は単純に「言い広められる」いう意味で”福音が”、ではない。
    啓示録5:2は御使いが巻物を開く者を探す”声”ですね。
    その他の部分は、直接福音を伝える際に使われていました。
    そうではない5~6か所を取って、「ケールッソー」は「エウアンゲリゾー」では無いので、ハデスで宣教したのではないという説が出るのですね。興味深いです。
    ここは”どちらでもいいじゃないか”、”そうだったらラッキー、位の感覚で留めておけば良い”という方もいらっしゃいますが、ハデスでイエス様が何をされていたのか、その結果起こった事とは・・・が間違って解釈、伝えられた場合、私は本当の救いというのは本物の御言葉からしか来ないと思っていますので、大問題だと感じます。
    続いて読んでいきたいと思います。
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