ご質問コーナー:I コリント14:2
「 質問させて頂きたいのですが、『Ⅰコリント14:2』の>異言で話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。(第3版:「自分の」は補足)>異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。(2017年度版:別訳「自分の霊で」)神に話す、語る、というのは、異言で“祈っている“事にならないでしょうか?第3版と2017年度版を両方書き出してみました。 」
ご質問ありがとうございます。私も初めはそう思っていました。そう読めるからです。しかし、「聖書的な異言」がなんであるかをしっかりとらえ、それを踏まえて、Iコリント14章を注意深く読み返してみると、パウロが何を言おうとしていたのかが見えてくると思います。
「聖書的な異言」とは?
外国語であり、異国の人への伝道目的で、聖霊が与えて下さる世界のどこかで使われている言語です。人に神のことばやメッセージを伝えるために与えられるものであり、聖霊の賜物ですから、決して自分の徳を高めるためのものではなく、人と話すため言語です。このことをしっかりと踏まえた上で、Iコリントの14章を読む必要があります。
前回取り上げました「異言」と訳されたところは「外国語」が、しっくりくる箇所でした。グローッサ(γλῶσσα)の元々の意味は「言語」「ことば」「舌」です。混乱が起こっている原因が、
1、グローッサを「外国語」のことを言っている部分でも「異言」と訳してしまったこと
2、「言葉」に「異なる」を付け足して「異言」と訳してしまったために、「異言」という言葉自体が、読む人に間違ったイメージを植え付けていることだと思われます。
奇妙な異言
しかし、グローッサと使われた中には、外国語ではないと思えるところがあります。特に集中して出てきているところは、Iコリント14章です。この章のグローッサ(γλῶσσα)のある部分は、「奇妙な異言」と訳したほうがしっくりするものが登場してきます。
「異言」という言葉自体が、「奇妙な言葉」なのですが、「異言」をすでに聖書的であるかのように思っている人たちがいるので、あえて「奇妙な」をつけて区別させていただきます。
グローッサが「舌」を意味するのは、9節の「舌で明瞭に語るのでなければ、」の「舌」のところです。コリント教会の「奇妙な異言」の起源
実は「奇妙な異言」は異教の世界から持ち込まれたものでした。1世紀には、神秘宗教、デルフィ宮の宗教、シリアの女神ジュノの宗教の中で、「奇妙な異言」はすでにあったのです。また、グノーシス主義において、「人間を神とするナルシスト的エクスタシー異言」は歓迎されました。
それらの哲学や宗教的背景を持った者や、つながりのある者たちが救われ、コリントのエクレーシア(集まり)に来るようになったのです。しかし、「奇妙な異言」もそのまま持ち込まれたことが問題でした。
聖霊起源でないのにもかかわらず、あたかも聖霊の賜物であるかのように「奇妙な異言」を使い続ける者たちがいました。彼らは、集会中に意味のわからない奇妙な異言で、口々に話したり叫んだりしていましたので、コリントの集まりは大混乱に陥っていました。
それらは偽物で、聖霊の賜物ではないことを、パウロはコリントの教会にわからせようとして、注意深く「奇妙な異言」を揶揄し、この14章の手紙を書いたのです。そういった背景があったことを知らず、あるいは無視して、今日の「奇妙な異言」ついてのパウロが少しも認めず、皮肉を込めて書いているのにも関わらず、正当化しようとして聖句を裏付けとして使うのは大きな間違いです。
意図的に作られた奇妙な異言の歴史
「異言ならばやみます」と(Iコリント13:8)パウロが言ったように、2世紀ぐらいにはほとんど「奇妙な異言」はとだえてやんでいったのです。ところが、聖霊による外国語ではなく、全く悪霊起源の偽りの「奇妙な異言」が、現在の色々な教会に入り込み、歓迎され、あたかも聖霊の賜物であるかのように振る舞っています。
1900年から「聖霊のバプテスマのしるしは異言である」という聖書とは関係ない「間違った教え」が発信されたのです。それをおし広めたのは、アメリカのカンザス州トピーカ市のベテル聖書神学校校長チャールズ・パーハムです。発端は女生徒のアグネス・オブスマンが「奇妙な異言」を話し始めたことでした。
聖書が決して勧めていない、聖書的根拠がない、聖霊が与えたものではない「奇妙な異言」であったのにもかかわらず、「その霊を吟味」することをしなかったのです。逆に、権威ある立場の聖書神学校の校長が広めたことで、吟味するどころか「奇妙な異言」を祈り求め、練習と訓練を重ね、たちまち広まって行く結果となったのです。
「エクスタシー異言」「未知の異言」と呼ばれる「奇妙な異言」ニセモノ異言が復活し、現在世界中の教会を惑わし続けています。コリント教会がかき乱され、秩序が乱され、混乱が生じたのと全く同じ問題が起こっているのです。
Iコリント14章の中の外国語
どうみても「外国語」でない「奇妙な異言」が聖書に書かれていますが、特にIコリントの14章に集中してグローッサが14回も使われています。その中で、外国語として書かれているのは以下の箇所です。
18節、パウロは多くの外国語を話せました。それは祈りではなく、話す言語です。
21節、異なった舌ヘテログローッサスἑτερόγλωσσοςはここだけしかつかわれていません。「異なった舌」と言うよりは、「外国語を使い慣れない舌」「外国人の口」で、ということでしょう。引用されたイザヤ28:11では、「もつれた舌」で、「外国の言葉」で、となっていることからもわかります。
私が救われるきっかけとなったのも、アメリカの宣教師の「もつれた舌」を通してでした。慣れない日本語をとても変な抑揚で話されるので、英会話を期待していったわたしは、肩透かしを食らった気持ちでがっかりしたり、吹き出しそうになったりしましたが、真剣に話す姿から福音に出会うことができたのです。さて、22節は伝道のための外国語です。聖霊によっていきなり話せるように与えられる言葉は、「不信者のためのしるし」でした。すなわち、まだ、イエス・キリストを救い主として信頼していない人たちにとって、神の奇跡を知らせる証拠となりました。ユダヤ人がユダヤ人に伝道する時には、異言は必要ありません。21節からの流れで、異国の人への伝道のことです。
私は、あなたがたのだれよりも多くの外国語を話すことを神に感謝していますが、教会では、奇妙な異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。Iコリント14::18~19
今まで検討してきた聖書的な「外国語」ではない、怪しい「異言」を使って話す者たち、祈る者たちが、コリントの教会を混乱させていました。その特徴は、Iコリント14章からまとめてみましょう。いかに聖書的な「異言」とずれているかをみてみましょう。
悪霊の「異言」の祈りの特徴( )は節
・福音を伝えるためではないもの(2)
・人に話すのはないもの、神に話す(皮肉として言っています)もの(2)
・自分を高める。兄弟姉妹の徳を高めない、自分の得(徳でない)と感情を高めるもの(4)
・啓示や知識や預言や教えなどによって話さないもの(6)
・人の益にならない。意味のわからない言葉(6)
・舌で明瞭な言葉を語らない。音声として不明瞭で言葉になっていない。(7〜9)
・どこの国の言葉にも属さない言葉(10)
・言っていることが他の人にわからない(9)(14)
・空気に向かって話している(9)
・世界のどこにもない意味のない言葉(10)
・教会を高めるものでなかった(12)
・解き明かすことができるように祈る必要があるもの(13)
・霊は祈るが知性は実を結ばないもの(14)
・知性が麻痺しているもの(14〜15)
・独りよがりの感謝であって他の人の徳を高めない。自己満足のため、恍惚感、陶酔感を与えるもの(16〜17)
・教会で皆が異言を話しているなら、気が狂っていると言われる状況となる(23)
・解き明かす者がいなければ、黙っているべきもの(22〜23)
聖霊から出ていない、悪霊の異言
これらの描写はどうみても、聖霊の賜物ではありません。聖霊から出ていないということは、何の霊でしょうか?人の徳を高めず、自分の満足のためだけのものですから、聖霊から出ていないことは明らかです。
それは、イスラム教やヒンズー教の中に見られるものと同じ「奇妙な異言」と変わりません。
イエス・キリストとの信頼関係を持っていない人も、「奇妙な異言」で祈れるのですから、聖霊と関係ありません。おかしくないですか? カトリック教会でも「奇妙な異言」が取り入れられ、練習と訓練が行われ話せるようになるそうです。
「奇妙な異言」を続けることは、あなたの理性がそこなわれて、別の問題の精神的なトラブルや、霊的な問題を生じさせる可能性がありますので、ご注意してください。
次回続きを書かせていただきます。
忙しい中ウェブチャへようこそ!偽りの異言、悪霊の異言、奇妙な異言があることがわかりましたか?まだ、異言が出ていないなら、安心してください。それが正常です。もし、異言を話そうとして、心に浮かぶ言葉を繰り返したり、わけのわからぬ音を出し続けようと努力しているなら、やめていいですよ。意味がありませんから。また、異言が話せるというのでしたら、悪霊からの可能性がありますから、早めにやめる方がいいでしょう。
理性で考えて、知性を持った祈りを取り戻してください。神様があなたに人格と理性と知性を与えました。神様を愛するのでしたら、理性や知性をマヒさせて、陶酔状態で祈ることをやめてください。神様は私たちが知性を尽くして、理性を尽くして、心を尽くして愛することを求めています。
神様を愛し、神様の愛の中に今日もお過ごしください。
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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