キリストの受難
1. 受難の始まり:十字架の前日 木曜日夜(ユダヤ時間金曜の夜)
受難はゲッセマネの祈りから始まりました。ゲッセマネの園での祈りと苦悩の霊的な戦いは、人間が誰一人ついていけなかったものでした。いつもと違うイエスの祈りの様子を見守る弟子たちも、何かを感じていたことでしょう。しかし、せっかく連れて行った3人の選抜愛弟子も、3回のゲッセマネにおけるイエスの祈りに、信じられないことに3度とも途中で眠りこけてしまったのです。結局、イエスはまもなく自分に襲いかかる屈辱的な死の恐れに対して、ひとりで戦わなければなりませんでした。これから受けようとしている父の怒りが満たされている盃を、きわめて残酷で、惨めで、恥ずかしい、呪いの十字架上で受けなければならないという、心の葛藤がありました。裏切られ、誤解され、あざけられ、唾を吐きかけられ、ムチ打たれ、ののしられ、挙げ句の果てに、裸にされてつるされる処刑だけではないのです。父なる神の怒りの盃を飲みほすのは、並大抵のことではないでしょう。
しかも、その苦悩や痛みを前もって知っていながら向かって行くのです。普通だれもとても耐えられないと思います。イエスの苦悩は、そうした苦しみの果てに死ぬと前もってわかっていながらも、前に進まなければならないのです。それが父の御心であるとわかっていても、ひるむ心との戦いでもあります。受け入れ難いものを父のみ心としって、受け入れるための孤独の戦いがゲッセマネの祈りであり受難の始めなのです。
2. 神としてではなく、人としてのゲッセマネの祈り
神だから、乗り越えられるはずとか、神だから耐えられたと思ってしまったら間違いです。イエス・キリストは人としてゲッセマネにおいても受難を受けておられたのです。ひるむ理由は痛みや苦しみ以上に、もっと耐え難い理由があったのです。「悲しみもだえ始められた。」「わたしは悲しみのために死ぬほどです。」一番辛いのは、父なる神から切り離され捨てられる悲しみでした。
(マタイ26:37、38)
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 ヘブル5:7〜8また、ゲッセマネの祈りは十字架を前に、人間が体験する究極の霊的な闘いでした。人間としてのイエスを、天使たちが力づけなければ乗り越えられないような苦悩がその時襲っていたのです。十字架の死を阻止しようとするサタン側の攻撃があったからです。イエスの心に、怒りの盃である十字架の死を回避させようとするサタン側の誘惑「できれば回避したい」との思いを起こさせる攻撃が始まっていたのです。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 すると、そこにイエスを力づけ続けるために一人の天使が天から現れた。ルカ22:42〜43天使に支えにられ力づけられなければ、乗り越えられなかった霊的闘いでした。人間は誰一人ついて行くことができませんでした。愛弟子たちも、その苦しそうな祈りの様子を見てはいたのですが、肝心なところで眠りこけてしまったのです。弟子たちも、ここに至るまでとっても緊張の日々が続いてこともあるでしょう。肉体の弱さもイエスは理解し受け入れていました。
3. 「無言」という答え
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。ルカ22:44これほどの祈りをしたことがあるでしょうか?
ゲッセマネ(油絞り)の園は、オリーブの実からオリーブ油を絞り出す機械があったそうですが、まさにオリーブの実のようにイエスの心は押しつぶされていたのです。もう搾(しぼ)り出されるものはなにもないほど、心を注ぎ出した祈りでしたが、父なる神の答えは「無言」でした。
3回も祈った祈りの答えが全て「無言」でした。それが父の答えであると、イエスは受け止めたのです。自分の願いではなく、父の御心がなんであるかをしっかりと受け止めて、神の怒りの盃を飲みほす決心をし、立ち上がったのです。それは、サタンに対する勝利でした。心への攻撃に対して勝利されたのです。
4. ゲッセマネの受難における勝利
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」 マタイ26:45〜463度の祈りを終えて、勝利したイエスは、裏切る者となった弟子のユダを迎える準備もできて、十字架にまっすぐに顔を向けたのです。その決意のほどがにじみ出ている言葉です。祈りから立ち上がったイエスは、踏み出した足でサタンのかしらを踏み砕き始められたのです。
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私たちも、「祈っているのに神は何も答えてくれない」と思ってしまうことがあります。しかし、「無言」が答えであることもあるのです。時には私たちも、神の御心がわかっているのですが、自分の気持ちや希望や願いに反しているために、別の答えが欲しいと思い祈っていることがあります。でも、すでに心に示されている場合があるものですね。
戦い無くして勝利はありません。私たちも一人では祈りきれない時があります。ともに祈ってくれる仲間がいるとどんなに力強いことでしょう。たとえ一人っきりでも、あなたのところにも天使は来られているのです。ゲッセマネの園で、イエスが天使が力づけたように。
そして、あなたのためにゲッセマネで祈られたイエスがいることを知ってください。
今日もそんな祈りと答えを受け取ってみましょう。祝福を祈ります!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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