「イエス・キリストに信頼する者は裁かれない。」 ヨハネ3:18、5:24
しかし、少なくとも以下に検討する聖書の箇所は、
クリスチャンと呼ばれる者たちの裁きについて書いてある???
本当にそうなのですか?
「裁かれない」のに「裁かれる」のですか?
イエス様が裁かれないと言ってくださったのに、
パウロは裁かれると言っているのは矛盾じゃないですか?
以下、キリストの裁きの座 ギリシャ語のベーマについて検討してみましょう。
ベーマが聖書の中でどのように使われているか。
ピラトの裁判の席 マタイ27:19、ヨハネ19:13
足の踏み場 使徒7:5
王座、裁きの座 使徒12:21
法廷 使徒18:12、16、17
裁判の席 使徒25:6、10、17
以上が、一般的な使われ方です。
将来の裁きについて聖書が一貫して伝えているのは、
裁きをなさるのは、父なる神ではなく、イエス・キリストですね。 使徒17:31
神はイエス・キリストに裁きを委ねられたのです。 ヨハネ5:22、27 使徒10;42
人となってこの世に来られたイエスが
私たちと同じ人としての肉体を持って、
私たちと同じこの世界を歩み、
サタンの誘惑や攻撃のある中、
父のみ心を完全に喜ばせる歩みをされました。
白き御座における最後の審判も
裁きをなさるのは、イエス・キリストです。 啓示録20:11
年を経た方である父なる神が御座に着かれた後、 ダニエル7:9
裁く方であるイエス・キリストが別の御座に着かれるのです。 ダニエル7:10
ですから、誰一人弁解の余地がないのです。
「人間は弱いから、罪を犯してしまうのです」とか、
イエスに向かって、「あなたは神だからわからない」とか、
誰一人弁解できないのです。
ローマ14:10 に 「神の」裁きの座と訳されています
(新改訳3も新共同訳も)が、
ギリシャ語テキストも、KJVも「キリストの」御座です。
それは、裁きの座ではなく、キリストが王となられている王座です。
ですから、正確には、「キリストの王座」なのです。
「私たちは皆、キリストの王座の前に立つのです。」
恐ろしいですか?怖いですか?
いいえ!
わたしたちは裁かれないのですから、大丈夫です!
裁きではなく、
キリストが王座に着かれているところでプライズの授与式 が行われるのですから。
「なぜなら、私たちは皆、
キリストの王座の前に現わされて、
本質的に良いことであれ、
無価値な、話にならない、つまらぬ、取るに足らないことであれ
各自肉体を持って生きていた時にした行為、行いに応じて、
何かを受けることになるからです 」 IIコリント5:10
この時、善悪を裁かれるのではない。
善と訳された言葉は、「本質的に良いこと」である。
悪をさばかれるのではない。
悪と訳された言葉は、
「無価値な、話にならない、つまらぬ、取るに足らないこと」であって、
人の評価でつまらない、取るに足らないと思えることも、
無価値で、こんなものは話にならないと思えることでも、
イエス様は、正しく評価してくださるということです。
イエス様のためにしたことを
「何という無駄なこととをしたのか!」と人がとがめるかもしれない。
300万円が無駄になった!
ナルドの香油壺を割って、
十字架の前のイエス様に全部注いだことも、 マルコ14:3〜9
コップ1杯の水でさえも、
イエス・キリストに属す者たちに飲ませるなら、
その人は決して報いリワード、プライズに漏れることがないのです。 マタイ10:42
イエス様が間も無く、私たちを天に引き上げるために
迎えに来られます。
地上での7年の艱難期の間は、
わたしたちには、イエスキリストの花嫁として、
天においてハネムーンの期間です。
同時に、天におけるリワード、プライズギビングの期間でもあるのです。
誰が一番働いたか?
頑張り抜いたか?
人がどれほど救われたか?などの比べっこではありませんよ。
そこで恥をかく人、高慢になる人もいません。
ほうび、プライズを多くもらっても少なくもらっても、
そこでの中心は、
私の喜びではないのです。
「主人の喜びをともに喜んでくれ!」
つまり、主イエス様と喜びを分かち合う時なのです。
他の人が自分より沢山のプライズをもらっても、
心から喜べるのです。
天においても、今も、
主との喜び体験が人生であり、今から永遠に続くのですね。
だから、主に信頼して、自分にできることをしていきましょう。
足らない力も、知恵も、大胆に主に祈り求め、
思い切った生き方をしていきましょう。
失敗はないのです。
成果が上がらなくてもいいのです。
結果が出なくてもいいのです。
ベッドの上で動けなくても、
何もできない状態でも
あなたが主のために何を願っているか、
祈っているかで、報われるのです。
「ですから、私の愛する兄弟姉妹たちよ。
堅くたって、動かされることなく、
いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは、自分たちの労苦が、
主にあって無駄でないことを、
知っているのですから。」 Iコリント15:58
今日もウエブチャへようこそ
今日は、朝から出かけていました。
高速を使って北へ1時間のところにある兄弟宅で、
エクレーシアの交わりをしてきました。
とっても楽しかったです。主にあるものとしての喜びを
満喫して今、戻ってきました。
今日の1つ1つ、主のためにと考えた1つ1つ
私も忘れてしまっているようなこと。
全部++++プラスで、何かを与えたいを主は思われていますよ。
楽しみに、生きられますね!
では、また、明日!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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