「異言は聖霊を受けたしるし」?
「ですから、与えられるよう皆で祈りましょう」と牧師が勧める。
「異言とはなんですか?」「異言がいまだにしゃべれません。」「異言をしゃべれないと一人前のクリスチャンとして認めてくれないので、教会に行きづらい。」「異言で祈れるようにと練習や訓練を受けてください。」「自分の意志でコントロールしないで、とにかく口を開いて、どんな言葉でも出してください。自分を解放するのです。恥ずかしがらないで頑張りましょう。」「異言で祈っていただいたら、なんだかわからない言葉が出るようになった。これが異言なのかな?」
ペンテコステの日に話された異言?
この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」使徒2:6〜11
異言についてまとめてみましょう。異言とは?
・世界のどこかで話されている言葉の一つ
・エルサレムの国外から来た人達が、これは自分の国の言葉だと分かった外国語
・しっかりと明瞭になって発音することで、福音を伝える目的で与えられた外国語
・「祈り」ではなく、福音を外国語で伝えるためで「話す」「語る」などの動詞が続く
本来の異言は「外国語」
「異言」と今日でも一般的でない単語で訳されたために、クリスチャンの間でさえ混乱が起こっています。まして一般の方はわかりづらいので、「異言」ではなく、文脈や前後関係から、使徒の2章ではヘブライ語の以外の「言語」つまり「外国語」がわかりやすいでしょう。
この場面で「外国語」を学ばずして、いきなり外国語を話せるようになったのは、ヘブライ語がわからない外国人のために救いの福音を伝えるためでした。自分のためではありません。弟子たちに一時的に、瞬時に、訓練もなく完璧な外国語が与えられたのです。恒久にではありませんでした。
「異言」と訳されたグローッサγλῶσσαは新約聖書で47回使われています。「言語」「国語」「言語」「舌」(47回中15回)などの意味があり英語では「tongues」です。使2:3、4、11、10:46、19:6も「外国語」と訳した方がわかりやすいのでは。
宣教における約束としての新しい言葉
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新たなことば(グローッサ)を語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。マルコ16:17〜18
「新しい」カイノスκαινός「まだ使っていない、新鮮な、目新しい」という意味です。時間的な新しさでなく、質的な新しさです。「新たな言葉」とは、「新しい言語」しゃべったことのない「外国語」のことです。それが実現したのが、使徒の2章の五旬節の時でした。べブライ語を知らない外国人への伝道のために「新たな言葉」である外国語が与えられました。
この時代、初期の伝道の時期に必要とされていたしるしでした。語学学校やDVDやネット環境のない時代でしたから、聖霊を通して即座に与えられたのです。今はどうですか?どんな海外宣教を担う団体も必ず、語学の習得のために勉強をして、語学を身につけてから、それぞれの宣教地に送り出すことをしています。それを怠って、現地で聖霊が与えられると大胆に信じて出かけた人たちが、ことごとく失敗に終わったのも20世紀の実話です。
異邦人の救いと聖霊が与えられた証拠として異言/外国語?
「新たな言葉」は「異言」ではなく、「外国語」です。この約束が実現した例が、使徒の働きに書かれています。2章です。また、興味深い例が使徒10、19章にあります。
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが外国語を話し、神を賛美するのを聞いたからである。使徒10:44〜46a
見えないお方である聖霊が、本当に人のうちにくだって来られたのかを知らせるためでした。特にユダヤ人だけではなく、異邦人にも聖霊が注がれることなど、ありえないとユダヤ人のペテロを始め他の弟子たちも考えていました。彼らの間違った既成概念を覆す必要がありました。
異邦人が救われただけでなく、「異言で話し」出したので、見えないお方である聖霊がおくだりになったと、ユダヤ人の信者(割礼を受けているクリスチャンたち)は理解できたのです。彼らが話し出した異言とは、なんだったのでしょうか?
彼らが話したことのない奇妙なことばではなく、彼らにとってまだ、学んだことのない「新たな言語」である外国語でした。救われた異邦人たちが、知らないはずのヘブライ語を流ちょうに話し出したことで、聖霊が彼らに注がれたと理解できたのです。
エペソでの異言/外国語?
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じて、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊が存在することも聞きませんでした」と答えた。「では、何に浸されたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるキリスト・イエスに信頼するように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名に浸された。パウロが彼らの上に両手を置いたとき、聖霊が彼らに来られて、彼らは外国語を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで男で十二人ほどであった。使徒19:1〜7
異邦人の地エペソで、パウロはバプテスマのヨハネの弟子たちに出会いました。彼らが受けていたバプテスマは、「ヨハネの」バプテスマであり、「悔い改めの」バプテスマでした。そして、聖霊が存在することも知らなかったのです。その後イエスをメシアと信頼して、主イエスの御名により水に浸されたのです。
パウロが彼らの上に両手をおいて祈ると、異邦人たちが、ヘブライ語で話し始めたのでした。
彼らがいきなり知らないはずのヘブライ語を話すことを通して、パウロも異邦人が救われ、聖霊が与えられた事を知ったのです。後にエペソの兄弟姉妹たち、エクレーシアに宛てて手紙を書きます。
どのように聖霊を受ける過程を明らかに
この方(救い主イエス)にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またイエスに信頼したことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちの御国の相続の保証で、これは神の民の贖いのため、神の栄光がほめたたえられるためです。 エペソ1:13〜14
12人のエペソの聖徒たちに続いて、たくさんの方が救われ、聖霊が与えられました。聖霊はいつ注がれるのか?12人は少し例外的でした。そこで、「イエスに信頼する事で、約束の聖霊が、証明する印のように押される」とこの手紙で確認しています。使徒時代の初期は過渡期で、聖霊を後から受けることが起こっていました。しかし、その後は、「イエスを救い主として信頼した瞬間」に、保証の「印」を押されるだと説明しています。
今日もウェブチャへようこそ!
異言を話せなくても、なんの心配もいりません。大事なのは、イエス・キリストに信頼したかどうかですね。不思議体験や、感情の盛り上がりや恍惚感をもとめていると、サタンのワナに陥りますので、要注意です。感覚や感情でなく、事実を土台として下さい。
土地や建物の権利証のように、そこに正式な印が押されていれば、それは有効であり、権利証の内容は覚えていなくても、あなたのものです。安心してくださいね!次回は、ニセモノの異言、悪霊の異言などを検討してみたいと思います。
聖霊とともに良い一日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
コメント
初めて質問させていただきます。
Masalukさんは「異言は外国語であり、意味の分からない言葉ではない」と解釈しているとお見受けしました。
私の日本人の知り合いに外国語の異言をしゃべる人がいます。
最初は韓国語、現在は英語らしいです。
ただし、それらの言語は自分では理解できず、むしろ最初の韓国語の時は、韓国語を理解したらしゃべれなくなり、今度は英語でしゃべりだしたとのことです。
Ⅰコリント14:4には「異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます」とあります。
彼女のケースでは、外国語を語りながらそれを「自分で理解できない」という状況です。
異言が外国語、しかも自分でそれを理解できないとするならば、自分を造り上げているということにはなりません。
異言=外国語というとらえ方をすると、Ⅰコリント14:4にある「異言を語る者は自分を造り上げる」との言葉が矛盾するように思われます。自分で理解できない外国語は、自分を造り上げることはできないと思うのですが・・・。
この点については、Masalukさんはどう思われるでしょうか?
>異言で話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。(第3版:「自分の」は補足)
>異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。(2017年度版:別訳「自分の霊で」)
神に話す、語る、というのは、異言で“祈っている“事にならないでしょうか?
第3版と2017年度版を両方書き出してみました。
この場合”外国語”ではなく、人にも自分にも理解不能(解き明かせる人はいる)な”音”という事はありませんか?
「舌」グローッサ(主格)の名詞も、動詞の「分かれる」ディアメリゾーδιαμερίζω(現在形・中間受動態・分詞・主格)も 複数形で人称は女性です。「火のような分かれた(分配された)舌」となると思います。
「舌が分かれて現れた」のではなく、「分かれた舌が現わされて」が正しいと思います。なぜなら、「現れる」オプタノマイὀπτάνομαι(動詞・アオリスト・受動・叙実・三人称・複数)ですので、現れた時点で、複数に分かれていた。それは、蛇の舌のように先が分かれているのではなく、複数に分かれて独立した炎のような舌が15以上120?ほどの数で現されたと思われます。
やはり第3版の方が正しいのですね。
先日友人に、異言について説明しました。
貴ブログをメモした紙を全て忘れてしまったのに、聖書だけで、正しい場所を幾つも引用出来たのは感謝です!
>言語」「国語」「言語」「舌」(47回中15回)などの意味があり英語では「tongues」です。使2:3、4、11、10:46、19:6も「外国語」と訳した方がわかりやすいのでは。
・「言語」が二重になっています。
・使徒2:3の“炎のような舌”は、”外国語”ではなくそのまま”舌”で良い気もしますが、原語ではどうなっているのでしょうか?
・第3版では『炎のような分かれた舌が現われて(注釈:あるいは「分けられた」)~』ありますが、2017年度版では『炎のような舌が分かれて現れて、~』となっています。
分かれた舌が現われるのと、舌が分かれて現われるのは、ちょっと印象が違いますね。(細かい話ですが…)