3つの助言が必要となるラオデキヤ教会の根本的問題は、何でしょうか?
居心地の良い集まりでしたが、イエス・キリストを締め出していた
イエス・キリストが不在でも、成り立っている教会でした。
教会のプログラム、行事、イベントは、イエス・キリストなしで、人々は集まっていました。
教会の数々の儀式は、イエス・キリストなしで、形式化され、形骸化され、誰でもマニュアルどうりできるものとなって、聖霊の関わる余地がないのです。今日もフランチャイズ店のごとく、本部から送られるメッセージや教会運営支持で成り立ってしまっている、そんな教会もあります。
イエス・キリストがかしらではなく、人や組織が支配している
イエス・キリストが救い主であると、まっすぐに語られないメッセージ、
イエス・キリストが讃えられない礼拝、音楽
他の宗教を受け入れ、その調整のため、聖書の教えを歪め、イエス・キリストを主張できない教会
イエス・キリストは教会の扉の外に締め出されています。
扉をたたいているイエス・キリストのノックも聞こえないほど、中でたのし〜く人間中心の集会がもたれているのです。
イエス・キリストよりも奇跡や天使が中心となっている教会
イエス・キリストとの交わりより、自分の恍惚状態を優先する教会、
結構熱狂的ですが、イエス・キリストは参加していません。奇跡が起こる物珍しさに集まる人々、イエス・キリストのことより、人や天使のことが話題となっている集まり。
見よ。わたしは、戸のそばに立ってたたく。もし、だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の中に入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。啓示録3:20(私訳)
イエス・キリストを締め出しているのは、実は、教会というよりは、個人の問題なのです。
戸はあなたの心の扉のことです。
イエス・キリストを締め出しているということなどありうるのでしょうか?考えられるのは
1、見た目、クリスチャンと同じように行動し、奉仕をし、献金もしたりしていますが、イエス・キリストを個人的に受け入れた経験はどうですか? イエスとの個人的な関係がありますか? 聖職者と言われていても、イエス・キリストがわからない、言われている霊的な価値観がわからないという方、こういう人と話していても、「話が噛み合わないなあ」と思うことがあります。
2、救われましたが、残念なことに霊的な成長をしていない。 イエス・キリストにつながっていれば、時間とともに成長します。しかし、成長に欠かせない聖書の神の言葉を読まず受け取らず、吸収せず学ぶことをしませんから、成長している様子がありません。神との交わり祈りをしなくては、聖霊も悲しまれ、そんな状態で霊的な実を結ぶことも期待できなのです。
この世の楽しみや成功哲学に気を取られていませんか?
自分が満たされること、自分の気持ちの満足や感情の高揚が、あたかも救いであるかのように錯覚していませんか? ビジネスで成功すること、ご利益宗教と同じ繁栄の神学に気をとられていませんか?
それは、イエス・キリストを締め出していることです。
わたしが愛する者を、わたしはしかったり、懲らしめる。だから、熱心になりなさい。考えを変えなさい。啓示録3:19(私訳)
「熱心になりなさい 」ゼーローζηλόω熱心にひたむきに努力して(be)zealousの英語の語源。
「悔い改めなさい」はわかりにくい言葉です。「悔いる」という意味は、ギリシャ語のメタノエオーにはありません。悔いなくてもいいのです。メタノエオーμετανοέωメタμετά「変える」+ノエオーνοιέω「考える」で「考えを変える」ことです。
どちらもアオリスト時制の命令形です。「考えを変えなさい!」
自分の意志を持って大きな覚悟で、今すぐ今までの自分中心の考えから、イエス・キリスト中心の考えに変えると決断することです。
即刻の決心と決断が迫られています。
「吐き出したいほどなまぬるい」とは、信仰の温度差ではありません。
イエス・キリストを締め出しているということです。そのために、イエス・キリストに喜ばれない異質のもの、無関係のものに自分がなってしまっているのです。
イエス・キリストが懲らしめるのは、憎んでいるのでも、見捨てようとしてるのでもありません。あなたを「愛している」から、大切に思っているからです。
たとえ今の状態を嫌悪し、強く叱責したとしても、あなたを愛していることに変わりはありません。あなたがもし、正しくない状態にあるなら、変わることを期待し望んでおられるのです。
ですから私たちは、面子や対面をつくろったり保ったりしようと考えないで、
自分のみじめさや、たらなさい、不足、欠け、醜さ、罪深さをありのまま受け止めて、即座に熱心に考えを変え、このままではダメだと、方向をイエスの心のど真ん中に向けることです。
聖霊なる神の力をいただいて、変えていただくのです。
イエス・キリストを心の外に度々締め出して来た生き方を変えることです。
イエスを心に向かい入れ、食事しひとつになる
ユダヤ人は異邦人と「ともに食事をする」ことをかたくなに拒みました。それは、食事をすることで異邦人と1つとなってしまうと考えていたからです。
なぜなら、同じ1つの皿からスープを飲み、同じ1つのパンを裂くことで、1つのものを共有し互いに1つであることを意識し合ったからです。イエス・キリストを心に向かい入れていますか? 交わりは深まっていますか? 単なる宗教的、知識的レベルで終わっていないですか?
勝利し克服する者は、私の座の中に私とともに座ることを許す。私が勝利し、父の御座に父とともにすわるように。片耳でもある者は、御霊がそのエクレーシアに言うことを聞きなさい。(啓示録3:21〜22)
これは千年王国において、与えられる祝福の立場です。イエス・キリストともに共同統治する、この地球上の神の国での立場です。近い未来に向かって、自分の生活を点検し、心の全ての部屋にイエス・キリストをお迎えしましょう。
いろいろが物質的に恵まれている時代、祈らなくても何とかなる世界だからこそ、
その中に浸ってしまうのではなく、この現状ではいけないと、
霊的な目を開かせていただき、数々の誘惑に打ち勝ち、勝利する必要があります。
現在迫害下にある人たちと比べて、平和の中でイエス・キリストの御心にそって生きることは、意外と難しいのかもしれません。
ですから、考えを変えて、「吐き出したいほどの生ぬるさ」に勝利していきましょう!
イエス・キリストとともに食事をする親しい関係を持ち続けていきましょう。
今日も主イエスとともに良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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