ラオデキヤ教会(3) 「吐き出したいほどのなまぬるさ」を解決する3つの助言

啓示録(黙示録)

自分のなまぬるさに気づいていますか?

具体的には、どうしたら良いのでしょうか?

わたしはあなたに助言する。豊かになるよう火で純化された金をわたしから買いなさい。そして、あなたの裸の恥を現わさないように着る白い衣服を買いなさい。そして、目が見えるようになるために、目の縁に塗りこむ目の軟膏を買いなさい。啓示録318(私訳)

助言1:「イエス・キリストから直接、純化された金よりも尊いみことばを受け取ること」

「純化された金」あるいは、「精錬された金」とは、不純物の入っていない混じり気のない金を意味しています。試練を耐えぬき、練り清められた信仰(Iペテロ17)も「精錬された金」の1つです。

また、「精錬された金」は、試練の中だけから得られるわけではありません。試練がなくても、私たちは「純化された金」をイエス・キリストから買えるのです。それは、イエスから直接与えられるみ言葉です。「金よりも、多くの純金よりも慕わしいみことば」(詩篇1910)を読み、神のことばとして生涯求め、学び続けることです。実生活にピタッとフィットするみ言葉を学び受け取ります。

「時宜にかなって語られる言葉は、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」(箴25:11

実はもっと大きな問題は、金もどきや金メッキの偽りの教えや作り話

金に見せかけた人間の教えが、講壇から純金のごとく語られている問題です。それは、今日も同じです。聖書全体を神が人類に与えた神の言葉とみなさず、自分勝手に解釈しているのです。

聖書を神の言葉として受け取らず、人間の理性や知性や感覚を重視し、勝手な解釈で真理を歪めているのです。聖書が記録している事でも、自分の理性を超えた奇跡に関しては受け入れないことが科学的であるとし、そのままを受け入れない不信仰の方が、理性的であるかのように教会で歓迎されているのです。

神の言葉を「自由に、個人の理性的判断で再解釈」して良いとする神学も、偽りの教えです。

今日の霊的な貧困とはなんでしょうか?

聖書のみことばを聞くことの飢饉です。価値あるものとはなんでしょうか?

純金より尊い聖書のみことばを神の真理の言葉として学び、イエス・キリストから直接メッセージを受けることが求められているのです。それは、神学校や聖書学校にいくことではありません。ラザロとマルタの姉妹のマリヤのように、イエスの足元に座り、日ごとに聖書を学び、自分に与えられる神のことばを受け取り思い巡らすことです。霊的な貧しさに気づきましょう。

神の栄光を見る者は、自分ではできなくても「あなたのお言葉ですから」と信頼して従う者です。

助言2:「イエス・キリストという義の衣を、イエスから買い、24/7  着続けること」

「裸の恥を現わさないように着る白い衣服」とは、「イエス・キリストの義」です。キリストによる罪の赦しときよめをいただくことです。その義の衣の代価は、十字架においてイエスの命で支払われましたから、私たちはタダでプレゼントされた「義の衣」を着ることができます。「義」と「救い」はヘブライ語においては同義語です。

「義の衣、救いの衣」を着るのは、救われた時だけではありません。そこから始まって「イエス・キリストの義」を着続けているのです。「イエス・キリストの義」が私たちの拠り所であり、隠れ家なのです。私のみじめな罪人という裸の恥の姿を、隠せる唯一の衣服こそ、イエス・キリストの義です。

孫から教えられるイエス・キリストの義の衣の着かた

孫が、あるキャラクターのTシャツを1年中着続けています。大のお気に入りだから、下着も草履もそのキャラクターにこだわり続けているのです。3歳の誕生日の迎えたその孫プレゼントは、やはり同じキャラクターに関連したものを喜び、ケーキも、見るテレビも同じキャラクターでした。

着るものがないのではないのです。母親が別のものを着せようとしても、がんこに拒みます。親からしたら、冬でも擦り切れたそのキャラクターの衣服を着続けるのにほとほと困ります。「家にいる時は良いとしても、出かける時は着替えてほしい!」

私も「イエス・キリストの義の衣」も着続けることを、寝ても覚めてもこだわり続けるようにしたいと思います。人によって着替え直したり、隠すこともなく、着続けているのです。着ることがむしろ喜びであり、胸を張って輝いていますし、時にはそのキャラクターになりきっています。孫から学ばせてもらっています。

助言3:「目の縁に塗り込む目の軟膏をイエス・キリストから買い、霊的な開眼を求めること」

第1に、ありのままの自分の罪が、見えるようになることです。そして、悔い改める罪を知り、その罪を神の前に言い表して捨て去り、罪から離れることです。人に告白するのでも、人に懺悔するのでもありません。神にです。「公に」罪を告白するというのは、間違いです。新共同訳聖書には、「公に」が付け加えられていますので、ご注意ください。ギリシャ語テキストには「公に」はありません。

第2に本物と偽物、「真偽を見分ける霊的な判断力」をいただくことです。霊的な目が開かれて、本当に価値あるものに気づくことです。真に神が大事だと言われること、良しとされることは何かを見分けられるようになることです。

教会堂に目が奪われ、教会のイベントのエンターテイメントに熱狂し、数々の奇跡や不思議に驚いて、本物が見えなくなっていないですか?

弟子たちでさえ、聖霊が与えられる前は、金箔で覆われた神殿に目が奪われ、誇りにさえ思っていたのです。何が大事なものか、きちんと見えていますか?

弟子たちは、黄金に光り輝く神殿よりも偉大なイエス・キリストが見えなかったのです。

最も大事なのは、生活の中でイエス・キリストが見えることです。

第3に、「霊を見分ける目」を持つことです。今日、悪霊でもサタンでもやれることを、聖霊と勘違いして、教会の中でもてはやされたりしているところがあります。悪霊との関わりを持った大変な経験のある人からすると、悪霊の働きが明らかなそのような教会に行ってがっかりするのです。

霊を見分ける目を持っていますか?

聖書からの神の声を聞き分けていますか?

イエス・キリストにつながって、イエス・キリストと直接会話していますか?  聖霊なる神がその助けをしてくださいます。 聖書を通して、神の言葉に耳を傾け、交わり祈り、イエス・キリストを見るように生活することです。

イエス・キリストとあなたとの間に、誰もはいっていけないはずです。人も、天使も入り込めない交わりなのです。

今日もキリストに直接つながり交わり良い1日をお過ごしください。

プッシュ通知を

コメント

  1. Masaluk より:
    応為さん、いつもウェブチャを見ていてくださり、応援してくださりありがとうございます。出典を書こうとしていて忘れましたが、指摘していただいて、訂正することができ助かりました。新共同訳聖書では、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」とあります。ギリシャ語テキストにない「公に」を付け加えてはいけませんね!
  2. 応為 より:
    >神の栄光を見る者は、自分ではできなくても「あなたのお言葉ですから」と信頼して従う者です。

    アーメン!

    Ⅰヨハネ1:9ですが、新改訳第3版は
    『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。』となっており、新改訳2017年度版は、
    『もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。』となっています。

    『公に』が付け加えられている聖書はもしかすると共同訳かも知れません。検索すると多くの教会の牧師さんが、『公に』のある聖句を使ってメッセージをされたりブログを書かれたりしていますが、出典の聖書が何訳を使っているかは全く書いてありませんので、分からないのですが…。

    真偽を見分ける霊的な判断力、聖書を読んでいる時にいつも、内在する聖霊に寄り頼んでいます!
タイトルとURLをコピーしました