質問コーナー
「以前・・・ルカ9:23の >自分を捨て の”捨て”はギリシャ語でアパルネオマイ、”完全に否定する、見捨てる、否定する”の他に”自分の所有物としない”という意味だと出てきました。物も、人生の方向性も、命も、”自分の所有物”だと思っているうちは本当に苦しく、満足があってもまた焦る…という繰り返しなんだなぁと思います。気づいたらいつの間にか握りしめている、、という感じで、日々反省です。
ルカ5:28の >すべてを捨てて のギリシャ語カタレイポーは、レビ(マタイ)がイエス様に従う所ですが、ここは”(そのまま)保存しておく、残して去る”というニュアンスで、アパルネオマイとは違いますが、ここはどう解釈したら良いのでしょうか?」
応為さん、いつもウェブチャをお役に立てていただいて、ありがとうございます。とっても嬉しいですし、励まされます!私も日々反省しつつ、あわれみのうちに歩ませていただいています。
もう一度、両方の箇所と言葉の意味をごいっしょに確認してみましょう。その単語が使われている全部の箇所をあらためて調べてみると、日本語で読んでいたのではわからない、以前見えなかったものが見えてきました。ただし、今回はかなり細かな検討になりましたので、見出しををみて、お役に立つところだけ拾い読みしてくださっても良いかと思います。
「自分を捨て」ないでください!
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ルカ9:23(マタイ16:24、マルコ8:34)
イエスから十二弟子への挑戦の1番目「自分を捨てる」ですが、アパルネオマイἀπαρνέομαιを「自分を捨てる」と訳してしまうと、「自己否定」を勧めているようになってしまいます。イエス・キリストは決して自己否定を勧めていません。したがって前にも書かせていただきましたが、「自分の権利を放棄する」と訳すのが適切と思います。全てを「神からの預かりもの」と受け止めて、管理し活用していくことです。
いかに管理し、活用したかに応じて報い(プライズ)を与えると約束されています。与えられたものですから、多い少ない、優れているとか劣っているとか、健康だ不健康だも含め、全く関係ないのです。与えられたものを与えられた範囲で、神のために管理し活用し生きることです。いかに管理し活用したかで、次のステージでの自分が違ってくるのです。
アパルネオマイは、新約聖書全体で、13回使われていますが、残りの10回はペテロがイエス・キリストを3回「否定した」「知らない」と言ったことだけに使われて言います。詳しく学びたい人のために、箇所を挙げておきます。マタイ26:34、35、75、マルコ14:30、31、72、ルカ12:9、22:34、61、ヨハネ13:38
「何もかも捨て」ないでください!
この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。ルカ5:27〜29
レビであるマタイがイエスに従う場面でつかわれている「捨てる」のギリシャ語カタレイポーκαταλείπω「後に残す、残して去る、捨てる、さし置く、(そのまま)保存しておく」は新約聖書に25回使われています。
レビがイエスに従った時、「なにかも捨てて」と訳されてしまうと、イエス・キリストが勧めた挑戦状の1と同じようにとられますが、実はここでは、「後に残す、残して去る」が適切です。「私について来なさい。」とイエスに招かれた瞬間、レビは仕事をしている最中でしたが、何もかも「放り出して」即座に従ったことを表現しています。仕事も中断し、そこに残したままです。
その後レビは、その財産、その持ち家を捨てていないので活用して、イエス・キリストを自分の仲間や友人たちに知らせるためのパーティを開いたのです。「捨てた」のではなく、「活用した」わけです。自分の家、自分の財産、お金、仕事、地位などに、しっかりとしがみついていたマタイでしたが、イエスを知ったことの素晴らしさのゆえにそれらを精神的に「手放す」ことができたのです。またイエスのために役立てたいと思うようになり、食事会を計画し、実行したのです。
捨てないで「離れる」だけです。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ(カタレイポー)、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。…マタイ19:4〜5 (マルコ10:7、エペソ5:31)
結婚において男は、経済的に、精神的に、父母から「離れる」必要があります。妻と結ばれるために必要な大前提です。親と同居しているかどうかではなく、夫婦との間に父や母が入るべきではないと言うことです。意思決定を主体的に夫婦がしていくことです。そのために、父母から「離れる」必要があるのです。
子離れができない親、親離れができない子など、今日、夫婦関係が壊れる原因の1つになっています。夫が妻を優先することが、良い関係を築く土台となります。親であってもは夫婦の間に入ってはならないのであって、まして、仕事や他人や趣味などもです。
父母を「離れる」のであって、決して「捨てる」ではないです。くれぐれも両親を捨てないでください!
捨てないで「残す」
マタイ16:4、21:17、マルコ12:19、ルカ10:40、20:31、ヨハネ8:9、使徒2:31、18:19、24:27、25:14、ローマ11:4、テトス1:5などで人や動物を対象として使われています。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を 野原に残して(カタレイポー)、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。ルカ15:4
99匹を残して1匹を探しにいく?大丈夫かな?99匹を囲いの中に入れずに、ほって置いたら他も迷いだして、1匹どころの騒ぎで無くなるだろうと思っていました。しかし、NZでファームスティをしてみてわかったのです。羊というのは草のあるところからほとんど動かず、食べ続けているのです。
羊は「放っておける」のであって、決して「捨てる」必要はないのです。99匹の羊を「捨てない」でその場に「残す」だけです。また、「失われた」1匹の羊は、「滅びた」のではなく、「迷い出た」だけなのです。
ここでの「なくす」「いなくなる」はアポッルミ ἀπόλλυμιです。以前にユダのところで取り上げたように、ユダは、滅びの子だから滅びたのではなく、「迷い出て失われただけ」ということが、ここの箇所からも言えるでしょう。「捨て」ないでください!
ただし道は捨てないでください。「彼らは正しい道を捨て(カタレイポーκαταλείπω)てさまよっています。…」IIペテロ2:15
正しい道とは、イエスの道です。宗教を信じるのでも、キリスト教を信じるのでもありません。イエス・キリストが道であり真理であり命ですから。
今日もウェブチャへようこそ!
私たちは、イエス・キリストに信頼し、イエスと共に歩む人生を始めています。レビ(マタイ)もイエスに出会って、しがみついているものを手放すことができました。イエスは素晴らしいお方です。人生の満足はこの方にあります。任された人生を神のために管理しながら、積極的に活用していきたいものです。
主イエスは、失われていた私を探し、救い出してくださいました。イエスの道を共に歩みませんか?
平安と自由を体験しつつ、今日もイエスと共に歩みましょう。
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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