それは、ヨブに突然もたらされた災難、災い、病の目的と同じように思われます。
神がサタンに自慢できるほどの人格者、ヨブでしたが、
それでも完全ではありませんでした。
まして私たちは欠けだらけです。
救われて完成ではないのです。
人格的にいびつな私たちが少しでも
イエスの人格に似にることができるようにと、
神は私たちを、降ろせない重荷などを通して訓練されるのです。
イエス様のような人格を身につけるためには、
聖書を読んだだけでは、ダメです。
いくら頭でわかっても、身につくものではありません。
信仰生活がただ長いだけでは・・・
体験の中で、時には、辛い経験の中で練られ、
訓練されて身につくものだと思いますが、どうでしょうか?
中でも、私たちに特に欠けているのは、「柔和と謙遜」ですね。
といっても、この言葉は結構誤解されています。
柔和と謙遜と訳された元のギリシャ語は、
プラオスπρᾷοςとタペイノスταπεινόςです。
単なる「優しさとかへりくだり」ではないです。
「不当に抑圧された状況でもバランスを崩さず、少しもブレず、とどまりつづけ、
当然の権利を主張ぜず、弁解しない毅然とした態度」と言ったところでしょうか。
…善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、善を行なって苦しみを受けたら、当然の権利を主張したくなるし、
それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。… Iペテロ2:20、21
自分を正当化したいし、弁解したくなりますが、
弁解しないで耐え忍び、毅然としていられるようになるのが、
「試練や降ろせない重荷」が課せられている意味です。
欠けている人格を身につけるために、私たちは召されているのです。
私たちは、恵みや祝福は大好きで、そちらばかり求め、与えられたいと願うものですが、
自分が矯正され、イエス様に似るようにという課題には、とたんに尻込みするものです。
私たちの欠けている人格を試練や災いをとおして、
神は私たちを練りきよめ、整えようとされます。
そのために、「試練や降ろせない重荷」が与えられているとも言えるでしょう。
試練やストレスやどうにもならない状況でなければ、身につかないものがあるのです!
旧約聖書では「柔和で謙遜」と言われた人物の一人は、モーセでしょう。
兄のアロンや姉のミリアムから奥さんがクシュ人だからと
モーセの神からの召命に難癖つけられ非難されました。
しかし、モーセは動じないし、弁解しないし、
ただ受け止め、裁定を神様にまかせています。
だから、神様が動かざるを得なかったようですね。 民数記12:1〜8
なかなかできないものです。神に任せられないで
自分の怒りに任せ、反撃や復讐に手を染めてしまいます。まだまだです!
異言で話せるようになったら、あるいは聖霊に満たされたら、
一瞬で人格が変わるものでしょうか?
そんなモーセも、生まれつき柔和でも、謙遜でもなかったのです。
むしろ、結構短気で、怒りを爆発させて、兄のアロンもなだめるのに困ったほどでした。
モーセは十戒の書かれた2枚の板を、山の麓で投げつけて砕いてしまいます。
板は、それ自体神の作品であり、字は神の直筆であったという貴重なものでした。
(「エッ!神の十戒の板を砕いてしまった!もったいな〜い!」そう思うのは私だけ?)
四十日四十夜の断食と祈りの末、受け取った貴重な十戒の2枚石板を、
民の偶像崇拝にあきれたモーセは、怒り心頭、
一瞬のうちに投げつけ破壊してしまったのです。
断食と祈りで40日間も夜も昼も、神と交わっていたのですが・・・出エジプト32:15、16、19
そんな短気なモーセも徐々にいろいろな問題に遭遇し、一つ一つ乗り越えながら、
人格が練られ変えられていったと言えます。
不従順な民を40年間、何もない荒野で、2世代にわたって率いたモーセですが、
民は不平不満ブーブーで、モーセに何かにつけ楯突く状況、
問題を乗り越えるたびに、次から次へと新たな問題発生!
それは、どれほどの重荷となり、ストレスだったでしょうか?
そういった中で、イエスの人格の一部を身につける機会がモーセに与えられたのだと思われます。
晩年「愛の使徒」と称されたイエスの弟子のヨハネも、そういった一人です。
元来のヨハネは短気で、気性がかなり荒く、怒りを爆発させていたので、
イエス様に「雷の子、ボアネルゲ」と愛称をつけられていました。
しかも、自己中です。
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。
「主よ。エリヤもしたように、私たちが天から火を呼び下して、これは、イエス様の十字架が間近に迫る頃、
彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。ルカ9:54、55
つまり3年以上イエス様と寝食を共にし、イエスのそば近くを陣取っていましたが、
イエスの愛を心にまだ持っていなかった。
まだ、イエスの心の対局にいたということです。
自分が中心で、自分判断に頼り、自分で裁こうと、自分が神になっていたからです。
私たちがイエス様から学ぶのは聖書を読むことから始まりますが、
イエスに似るようになるのは、実戦の中でです。
私たちの内面の人格の欠けたるところが、変えられていくためには、
かなり時間が必要です。
それは、私たちが自分の欠けに気がつき、
向き合うところから始まります。
平穏な日々では、決して見えてきません。
人間関係の中でぶつかり合い、相手を責めますが、
かえって最悪の状態に陥り、結局は問題は、自分にあると、
こじれてやっと自分の欠けに気づかされることが多いのですね。
イエスの人格と遥かに遠い、自分自身を見出して、苛立ちさえ覚えます。
そのために、試練はあるのです。
あなたの人生の重荷や試練があることは決してマイナスではありません。
神は、私たちを衰えさせるのではなく、成長させるために、
あえて試練を許されているのです。
時々「ストレスがない方が楽だ」と考えたくなります。
「早く普通の生活がしたいねぇ〜」とついため息が漏れます。
重力が少なくなればなるほど、身体は軽く楽になりますが、骨のカルシウムは失われ、
元の重力では立てなくなり、歩けなくなります。
「ずっと横になって寝ていたいですか?」「はい!」
でも、筋肉が衰え歩けなくなりますよ。
今日もウエブチャへようこそ!
どんな降ろせない重荷や試練の中にあるあなたも、神様の手の中にあります。
きっとあなたが何かを学び、会得するためですね。
降ろせない重荷の目的と意味をしっかり捉えてください。
それを取り去ることでなく、乗り越える力と知恵を与えくださることを期待しましょう。
無理のないようにイエス様は傍らで共に担ってくださっています。
そればかりか、イエス様は、私をその中で練り清めて、私に欠けている人格形成を助けてくださるのです。
今日も良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
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