最高の聖霊の賜物「愛」を追求し続けよう!

聖書からのスピリチュアルライフ
前回からの続きです。Iコリント13:4〜7は本当に実行可能な「愛」の言葉でしょうか? 問題だらけの状況で勧められて、愛を実践できるものでしょうか? 単なるスローガンでしょうか?

実行可能なアガペーの「愛」

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 6不正を喜ばずに真理を喜びます。 7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。Iコリント13:4〜7

1、愛は寛容である

今日「寛容」という言葉があまり使われなくなって、わからなくなっています。寛容とは、ギリシャ語でマクロスメオー μακροθυμέω 怒りをのばす、怒りを遅くする、辛抱強くする 耐え忍ぶ、忍耐する、忍耐強く待つ  という別の意味があります。

怒りをのばす」というと少しわかるでしょうか? 少しは怒りを遅くすることができるかもしれません。あるいは、耐え忍ぶことはどうでしょうか? できそうなことから始めるのもいいかもしれません。

2、愛は親切です

「親切です」とは?クレーステウオマイ χρηστεύομαι 親切である、情け深い、思いやりがある(他人のことを自分の事のように感じる)という動詞です。

最初の二つの言葉も、この後に続く3から15の勧めも、「愛は」と名詞で始まっているのに、全て動詞で説明されています。それにもかかわらず、誰かに何かをするという行動の勧めではありません。つまり、15の「愛」の勧めはあなたの「心の中における行動の勧め」とも言えるでしょう。

意外かもしれませんが、外にあらわされる行動ではなく「心のありよう」です。やがて、行動に出る場合もあるでしょうが、その前にまず、自分の心で、どのように「する」のかが勧められているのです。

それなら、できそうじゃないですか?

「愛」3〜15の辞書的な別の意味の味わい

3、ねたまない、「嫉妬で心をいらだたせない」 妬むことはストップできなくても、嫉妬で心をいらだたせないことはできそうです。

4、自慢しない、「虚栄を求めない」 本来の自分の姿からかけ離れた、自分の虚像を作り上げて、虚像で人付き合いをしていると、疲れてしまいます。

5、高慢にならない、高ぶらない

6、礼儀に反することをしない、いばらない、横柄にならない

7、自分の利益を求めない、自分の利益に固守しない、利己的でない

8、怒りっぽくない、いらだたない、うらみを抱かない

9、人のした悪を思わない、不当な害を受けても意に介さない

10、不正や不義を喜ばない

11、公正や正義や真理を喜ぶ

3~10は、すべて何かをすることではなく、「しない」という心のありようです。行動よりも「しない」というセルフコントロール、自制が勧められています。外に表すことではなく、心の内側の決意です。

「愛」が実行できる低いハードル

「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」 マタイ18:21~22

七度を七十倍するまでとは、計算上7回x70=490回です。昼間のもっとも活動する8時間の間に、同じ人が同じ罪を自分に対してして、およそ1分おきにしてきたことに相当します。

16時間活動している人は2分おきに赦すことになります、私は何回まで赦せるでしょうか?490回はハードルが極めて高すぎます。オリンピックの棒高跳びぐらいのハードルです。

1日1回同じ悪を仕掛けてくる者に、490日間赦し続けるなんて、これも無理です。そう簡単に赦せないことが、たくさんあります。中には1回でも赦せないこともあります。何回まで赦せますか?「七度を七十倍するまで」ですか?それは無理でしょう。

赦せないものは、赦せないのです。相手が心から謝ってきた時には、多少違うかもしれませんが、普通赦せないものは赦せないのです。490回では、どうでしょうか? 不可能です。

赦せないということで悩まれる方がいます。聖書は「無理しても赦せ」などとは言っていません。赦せなくてもできることがあります。「人のした悪を思わない」という心のありようです。

「赦せない」のですが、自分のために「赦せない思いを持ち続けるのではなく、思わない」と決めることです。赦せないと悩むのではなく思わないようにするという勧めです。相手の問題であり、自分の問題ではないと境界線を引いてしまうことです。

あなたの罪は思い出さない

1日490回の赦しを、神は私たちにしてくださっているのです。赦し続けているのです。全てを我慢し続けてくださっているのです。神によって暴露されるべき罪が、イエス・キリストの十字架の犠牲のゆえに、覆われ続けているのです。

『わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。』 イザヤ43:25

思い出すことができる神が、あえて「思い出さない」と決めておられるのです。神に記憶された私たちの数えきれない罪を、イエス・キリストの身代わりの償いのゆえに、思い出さないと意志決定してくださっているのです。

「わたし自身のために」とありますように、神がそうされているように、私たちも「自分のために」思い出さないという決意をすることは、自分のためになるのです。

また、私たちはイエス・キリストを通して赦されている体験をしているなら、自分の心を悩ます人からの悪を「私自身のために」「思い出さない」と心の実行を、人に対しても決定されてはいかがでしょうか?

私たちの体験が「愛」の土台

12、全てを我慢し、覆い

13、全てを信頼し、

14、全てを期待し、

15、全てを耐え忍ぶ

「すべてを」は「あらゆることにおいて」ですが、それにしてもハードルがあがってきています。実は、今までのまとめでもあります。そして、これらも動詞であり。心のありようなのです。

全てを信じとは、信仰ではなく、「信頼する」ことです。いつまでも残るもの、継続するものは、信仰ではなく、信頼です。そして、人間関係において全てを「信じ」ではなく、信頼(ピスティス)の動詞「信頼する」ピステウオーです。イエス・キリストとの信頼関係はいつまでも続きます。

私たちに「信仰」は、求められていないのです。「カラシ種」ほどでも信頼しているかどうかが問われているのです。イエス・キリストが言われたように、必要なのは私たちの信仰の強さではなく、キリストの力なのです。私たちはただイエス・キリストに信頼するだけです。

また、希望のギリシャ語エルピィス は、望みよりは、期待の意味ではないでしょうか? まだ、見ていないことを望み見るものですが、イエス・キリストと顔と顔とを合わせてお会いする時、希望は現実となります。それでも続くのは、期待する関係です。ますます、期待していく生活が続いていきます。神は、無限のお方ですから、楽しみはつきないのです。

愛の中に信頼することと、期待することが含まれています。

こういうわけで、いつまでも残る(メノー 変わらずそのまま続く)のは、信頼(ピスティス)と希望(エルピィス 望み、期待)と愛(アガペー)です。その中で一番すぐれているのは愛です。Iコリント13:13

愛を追求し続けなさい!  Iコリント14:1

信頼も期待もむずかしい

信頼できそうにない人、期待しても一向に変わらない人たちがいるのです。期待は肩透かしとなり、信頼は裏切られてしまうことの連続です。言っていることが事実と食い違っているのに、見え見えの嘘をつく人、また嘘をつき続ける人がいます。

なんと、人間関係は難しいことでしょうか!? それでもあらゆることの問題の中に、それでも罪を見ないで、その人の変わることを期待し、信頼し続けることは至難の技です。

人を信頼できないと思う時、神はそんな私をよくもまあ信頼し続けてくださっているなあと思い起こします。

変化がなかなか見られられない、変わろうともしない人に期待することは難しいものです。しかし、頑固で変わろうとしない私を、神はあきらめずに期待してくださっているのです。

信頼することと期待することをはさむように、全てを我慢することと、全てを耐え忍ぶことが愛であると勧められています。どちらも似たような意味ですが、全てを信頼し期待するための忍耐の忍です。農夫が収穫を期待する忍耐です。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。Ⅱペテロ3:9

 

ウェブチャを訪れてくださりありがとうございます。

実行可能な愛の実践をしていきましょう。人が愛を実践することを求めたり、期待するのではなく、まず、自分から始めてみましょう。心のありようを決めましょう。「愛」は聖霊の最高の賜物なのですから、神に祈り、積極的に与えられるように求めることから始まります。

今日も愛を追求し続けましょう!

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