緊急事態が発生していて、すぐに神に助けてもらいたい、急を要する、そんな時は、ないですか?
祈りの応答の緊急性を感じつつも、目の前で起こっている問題のあまりの大きさに、パニックになった時は、ないですか?
私はあります。いつになく、真剣な祈りで、助けを求め、叫び、お願いします。
「主の祈り」で落ち着いて祈っている余裕もなく、ただひたすら、「天のお父様、助けてていください!」「主イエス様、お願いします!」と叫んでいます。
そんなのでいいのでしょうか?本当は、どうしたら良いのでしょう?
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカ11:9〜10
「求める」アイテオーαἰτέωあるいは、アイトーですから、ギリシャ語を覚えるのに「愛祷」の当て字はいかがでしょう。アイトーの意味は、「請う、願う、頼む、要求する、求める」です。
そして、現在形の命令ですから、「繰り返し何度も求め続ける」という意味です。求めるものが与えられるまで、繰り返して「請う、願う、頼む、要求する、求める」を続ける祈りです。
「探す」も「たたく」も現在形の命令ですから、「繰り返し探し続けなさい。」「繰り返したたき続けなさい。」という意味が含まれています。
いつまで、この祈りは続けますか?
求め続ける祈りは、その応えが与えられるまでです。
たたき続ける祈りは、開かれるまで、開けてもらえるまでです。
探し続ける祈りは、探しているものが、見つかるまで探し続けるということです。
答えられるまで、求め、たたき、探し続ける祈りです。すごく積極的というか、かなりしつこい祈りとなるでしょう。そうのように祈りなさいと勧めというか、命じられているのです。
恥知らずの厚かましい、そんな祈りも良い!
緊急事態では、平常心も失われ、相手の都合や事情などをかまっていられない状態になります。身の程知らずというか、なりふり構わず、格好もつけていられない求めであり、ただひたすら叫び声をあげることになるかもしれません。
何もかもご存知である神様に祈っているのに、普段は遠慮がちに言葉を選んでいたり、ためらっていたりしがちです。しかし、本当に緊急事態では、なりふり構わず、しつこく祈ったら良いと勧められています。「あつかましく」神様に祈ったら良いと勧められています。
祈り求め続ける祈りは、必ず応えがあるという、神への信頼の証拠です。
真夜中のしつこくて厚かましい祈りの例
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』ルカ11:5〜7
真夜中に訪ねて来た旅の途中の友人、もてなそうと思ったら、パンがない。コンビニのない時代ですから、近くの友人に頼るしかない。
しかしながら、真夜中に腹をすかして訪ねてくるのが「友人?」「そんな常識のない人は友人と言えるのか⁉︎ そんな人とは早く縁を切った方がいい。 とっても迷惑は話だ。 居留守を使えば良い。」など、意見したくなります。
一般的にこの地域においては、日中の暑すぎる時間帯を避けて、旅をするのが常識であったということから、到着が夜中になることも、よくあることらしいです。とはいえ、それなら、本人がしっかりと食料の用意をして旅をしてほしいと思ってしまいます。
しかしながら、「もてなしを美徳とする文化」のあるこの国です。「見知らぬ他人に対してさえ物惜しみをしない寛大さこそは、勇敢さや誠実さと並んで、最高の人間的美徳」ということが根付いていたようです。まして、友人が訪ねてきたのです。
また、一斤ではなく、三斤ものパンだったのでしょう?おそらく、「三日間の歓待は常識」という中東のもてなし文化として、三日分で三斤なのかもしれません。それだからこそ、なんとしても、もてなしのためにパンを用意したいと思うこの人の行動は、聴衆にとっては、とっても納得できる話だったようです。
さて、この人がとった行動は、迷惑を感じつつ、今度は、自分が迷惑をかける側になります。真夜中で、人々がすでに寝静まった時間帯に、近くの友人宅に向かい、その友人に「もてなしのためのパン三斤を与えてください」と具体的に、願い求めドアをたたき始めるのです。
ただ、「助けてください。」ではなく、具体的に
「パンを三つ」とお願いしたように、私たちは具体的な必要を祈ることが大切です。イエス様は、「わたしに何をして欲しいのか?」と求める人々に、時々問われていました。助けを必要とする時に、具体的に祈ることによって、その通りにならないにしても、神様がどのように答えてくださったかを体験する助けになります。「いかに最善の応えが与えられたか」が、後で分かることでしょう。
異邦人のように同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多ければ聞かれると思っている。 マタイ6:7以前確認しましたように、お題目を唱えるような祈りでなく、単なる「同じ言葉の繰り返し」や、言葉数の多さで祈りが聞かれるのではありませんから、理性を働かせて、具体的に心から真剣に祈り求めていきましょう。
「愛祷」です。人の必要のために愛を持って祈り求める愛の祈祷です。
必要が生じた時には、すぐさま具体的に神の応答を期待して祈り、求め続けましょう!
今日も良い1日をお過ごしください!
宗教嫌いの私が、生まれて初めて聖書を開いて読んだのは、高一の春。今だに宗教とか、キリスト教は好きではありませんが、今ではすっかり、聖書の魅力にはまって、奥深いみことばの味わいとその力と不思議に、心温められております。
ただ真理や事実を知りたいと、化石、古生物学、天文学、考古学、歴史、預言、精神や心の世界、霊的世界、死後の世界…などと探求しつつ、いつの間にか50年以上経ちました。
専攻は地質学ですが、テキサスのパルクシー川底の同じ岩盤の上に続く、恐竜と人の足跡化石、その岩盤に立った時はかなりの衝撃でした!初代の創造科学研究会の理事の一人として、ここニュージーランドに移住するまで、日本各地で講演させてただき、また、 Masaluk(メイサルーク)のペンネームでマンガ・ジェネシスの1と2のシナリオを書かせていただきました。
1994年からオークランド日本人教会の牧会の一端を担い、2018年5月から、必要に迫られさらに多くの人に良い知らせが届くようにと、イエス・キリストを中心とするHomeチャーチ「Japanese Bible Ecclesia (J-BE)」 https://ajbe.net/ を新たに始め、現在に至ります。
このウェブチャが、現在直接お会いできない皆さんにとっても、祝福の助けになりますように!(笠原 勝)
コメント
若者に、雨が来るかどうか7回も見に行かせた、エリヤの祈り続ける姿勢(例えそれが主から約束された事であっても!)に感動しました。
私も毎日祈り続けています。そして、主の”かすかな細い声”に聞き従えますように、と願っています。